中曽根康弘元首相を偲ぶ レーガン大統領が署名した「最高機密文書」で読み解く日米関係

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子会社に出す指示書

 念のために言うが、この報告が送られたのは11月19日、まだ予備選の開票の5日前である。各候補の陣営が必死に支持獲得に走る中で、すでに勝利を確信して日米首脳会談の段取りまで話し合っていた。

 そして、この報告はレーガン政権にとっても朗報であった。彼らからすれば中曽根こそ待ち望んでいた日本の指導者だったからだ。

 機密解除された文書によると鈴木総理が退陣を表明した翌日、10月13日の午後にホワイトハウスでNSCの会合が開かれている。出席者はレーガン大統領以下、ジョージ・シュルツ国務長官、キャスパー・ワインバーガー国防長官、ウィリアム・ケーシーCIA長官など政権の重鎮で、この日の議題はずばり「日米関係」だった。

 その年の初めにNSCは中長期的な対日政策の研究を指示して政治、経済、防衛分野の課題と取るべきオプションをまとめたが、この日は各出席者が意見を述べてNSDD(国家安全保障決定指令)を作る段取りだった。

 NSDDとは米国政府の外交、軍事、諜報活動の指針となる文書で大統領が署名して承認される。そして自民党がポスト鈴木を巡り揺れていた頃、10月25日にレーガン大統領が署名したのがNSDD第62号だった。「トップ・シークレット(最高機密)」とタイプされた3枚の文書はまず、「日米関係の根幹は安全保障条約で、それを変えるいかなる企てにも抵抗する」とあり、その抜粋を紹介する。

・日本の西欧志向を維持させつつ、独自の核兵器の開発は思いとどまらせる。

・(80年代末までに)一刻も早く日本に自国の領土、領海、領空及びシーレーン1000海里の防衛能力確保に同意させる。

・米国からの最大限の武器購入を促して日米の相互運用性を維持するが、日本独自の(防衛)システム開発は抑制させる。

・幅広い分野での日本経済の開放を促し続ける。

・日本国内の米企業への完全な内国民待遇と投資上の手続きの透明化を要求する。

 要は貿易摩擦の解消のため市場を開放して米国製武器も買えというのだが、ここで驚くのはNSDD第62号と、総理就任後に中曽根が推し進めた政策がほぼ重なっている事だ。日米同盟を基軸に貿易と防衛で協力すると言えば聞こえはいいが、まるで大企業の本社が子会社に出す指示書のようにも映った。

 11月24日の予備選で中曽根が過半数を獲得すると他の候補は本選挙への立候補を辞退した。そして臨時自民党大会で総裁に選出され、27日に正式に中曽根政権が発足したのだった。

 その2カ月後の83年1月18日、ワシントンで中曽根総理は初の首脳会談に臨んで日米を「運命共同体」と位置付けたが、その翌日に行われたのがレーガン大統領との朝食会だった。前述の通り、この席でレーガンが「ロン・ヤス」関係を持ちかけたとされるが、訪米に同行した外務省出身の長谷川和年秘書官によると事情は少々異なる。それによると、当初は駐米日本大使館の國廣道彦公使と相談し、中曽根の方からファーストネームで呼び合おうと提案するはずだったという。

「ところが、翌朝、朝食会から帰った首相は私にこうおっしゃるではないか。『長谷川君、長谷川君、レーガンさんの方から先に〈自分をロンと呼んでくれ、そして貴方をヤスと呼ばせてくれ〉と言われちゃったよ』。そこでこれは、国広(ママ)公使がレーガン大統領のシグール補佐官(ホワイトハウスのNSC(国家安全保障会議)でアジア担当部長を務めるガストン・シグール)に事前に根回しした結果であることを首相にご説明したという次第なのである」(「『ロン・ヤス関係』誕生の記」文藝春秋、2004年8月号)

 日本側は知らなかったかもしれないが、じつはその直前の1月14日、ホワイトハウスで首脳会談に備えたNSCの会合が開かれていた。そこでシグールの上司に当たるウィリアム・クラーク国家安全保障担当補佐官が、「中曽根の目的は大統領との個人的関係を築く事」とする文書を提出した。

「中曽根は大胆でカリスマ性があるものの国内での安定した基盤を持たず、その派閥も自民党で最小の一つである。閣僚の選定で証明されたように、元総理の田中(角栄)と鈴木(善幸)に大きく依存している」

「これが最近の新任の総理の中でもいち早くワシントンに来る背景で、米国との関係を巧く切り盛りできるのを証明する狙いである」

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