首里城焼失・修復を支えた当事者たちが語る「喪失感」と「復活への決意」

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首里城再建を誓う「琉球史学者」「宮大工」「漆芸家」(1/2)

 沖縄の心の拠りどころが、無残にも崩れ落ちていった。10月31日、世界遺産に登録されている「首里城跡」の上に建つ正殿などが、一夜にして灰燼に帰した大火。原因究明が急がれる中、30年以上にわたる復元作業に携わった人々は早くも“復活への決意”を口にして……。

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 沖縄のシンボルとして威容を誇っていた首里城は、暗闇を紅蓮の炎で照らしながら姿を消した。

「正殿や北殿、南殿など主要な七つの棟が焼失し、その面積は約4200平方メートルに及びました。これまでも琉球王朝時代の1453年、1660年、1709年の3回、そして太平洋戦争の沖縄戦と、計4回の焼失を経ています。今回全焼した正殿は、1992年に復元されたものでした」(地元記者)

 首里城跡が世界遺産に登録されたのは2000年。これに先立つ86年、壮大な復元プロジェクトが緒に就いた。今年2月には、正殿裏手にある「御内原(うーちばる)エリア」の工事が終わり、33年にわたる一連の作業が完了。また国営沖縄記念公園の一角をなす首里城公園にあって、正殿など有料区域の管理が、2月に国から県へと移行されたばかりだった。

「今回被害にあった7棟は、すべて戦後に復元されており、文化財保護法の対象ではありませんでした。県から管理者に指定された『沖縄美(ちゅ)ら島(しま)財団』は、鎮火の翌11月1日、会見を行いましたが、スプリンクラーが設置されていなかった点を問われると『そういう施設を前提にして県から指定を受けている。我々は関係しません』などと、現場の管理については他人事のような回答が目立ちました」(同)

 が、その後、火元とみられる正殿北側の1階部分から焼け焦げた分電盤が発見され、電気経路のショートが原因との見方が強まっている。外部からの侵入の痕跡はなく、放火の可能性は低い。設備の不具合による出火となれば管理者たる財団の姿勢も問われよう。

 首里城の事情を知る関係者が明かすには、

「台風の際などには、巻き上げられた海水が強風で城の壁に当たって屋内へ吹き込んできます。現に、城内では雨漏りが起きていました。海水が電気コードを覆う金属などにこびりつけば、錆びて『電気抵抗』となる。ここに大電流の負荷がかかれば、ショートを起こすことも十分あり得ます」

 出火の経緯はともかく、地域の人々が大いに打ちひしがれたのは言うまでもない。まして30年以上にわたる修復作業を支えてきた当事者ともなれば、その胸中は如何ばかりか――。

 王朝時代の歴史考証をはじめ、修復の全体指揮を担った高良倉吉・琉球大学名誉教授(72)=琉球史=は、

「城が焼けるさまを自宅の前から眺めて『本当に現実なのか』と、とてつもない喪失感に襲われました」

 そう嘆きながらも往時を振り返って、

「正殿の再建にあたって多くの学者と議論した結果、大戦で破壊された首里城ではなく、琉球王朝時代の姿を復元しようとなりました。我々は“中古でなく新車に”を合言葉にプロジェクトを進めていましたが、沖縄戦で当時の資料も失われてしまった。国内をくまなく探し回った結果、王家である尚(しょう)家が琉球処分で東京に移住させられた時、重要な資料も一緒に運ばれていたことが分かったのです」

 なかでも重宝したのは、

「おもに『百浦添御殿普請日記』と『寸法記』。いずれも王府の公式資料で、1864年に行われた王国時代最後の大規模工事の記録です。後者は鎌倉芳太郎という沖縄文化の研究者によってまとめられたもので、材料ごとの寸法まで記されていた。それらを読み解くうち、首里城は桐油で塗装されていたこと、琉球漆器の塗り師が参加していたことも判明しました。つまり城自体が巨大な“漆器”だったというわけです」

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