雅子皇后、即位の礼は20年前の苦難を乗り越えた“復活”の儀式

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人々が忘れた20年前の懐妊“スクープ”と流産

 平成の初期、筆者は同僚ととともに、当時の皇太子殿下のいわゆるお妃選びを取材した。他社に抜かれる不安がいつも頭から離れなかった。外務省から派遣されて留学していた雅子さんがいる英国のオックスフォード大学に潜入も試みた。ご成婚の記者会見では、緊張した表情を見逃すまいと、ずっとお顔を見ていた。雅子さまはその後、うつの症状で苦しみ、適応障害と診断された。原因は、お世継ぎの男子を産むことへの周囲からのプレッシャーによるものだと言う人が多かった。

 そのことを否定するつもりはないが、筆者の考えは少し違う。雅子さまが1999(平成11)年12月30日、稽留流産の手術をされたのをご存じだろうか。わずか妊娠7週目だった。当時、皇太子ご夫妻は12月3日から王国であるベルギーを訪問し、7日に帰国された。訪問中に妊娠の兆候があったため、帰国直後に極秘で診察を受けられた。まだごく妊娠初期で、極めて不安定な時期だった。しかし、それからわずか3日後の12月10日、ある全国紙が「懐妊の兆候」と報じた。他の新聞やNHKなども、ためらわず後追いした。宮内庁当局の心配をよそに、世は早くも祝賀ムードに包まれた。しかし、そうはならなかった。当時、テレビ局にマイクを向けられた母親の小和田優美子さんは丁寧に答えていたが、表情は暗かった。「わたくしは何も聞いておりません。もし、そう(ご懐妊)でなかったら妃殿下がお可哀想……」。母親の目にはうっすらと涙が滲んでいた。良い状態でないことをご存じだったのかもしれない。

“スクープ”の経緯は知る由もないが、帰国直後の診察からわずか3日後に、しかも実際は妊娠初期の危険な状態にもかかわらず、報道されてしまった。そのことに雅子さまが受けられたショックは想像するに余りある。誰が考えても、情報源は医療スタッフを含む宮内庁関係者だったのだろう。おそらく宮内庁幹部は、紙面掲載を思いとどまらせようとしたに違いない。しかし結論から言えば、宮内庁は雅子妃を守れなかったのだ。今ではほとんどの国民が、この事実を忘れてしまったかのようだ。しかし筆者は、この時の雅子妃の精神的苦痛が、後々まで尾を引いてしまったのではないかと今でも思っている。

 流産がどれほど女性にとって辛いことであるか。ましてや、日本中がお世継ぎを期待する中での出来事である。そういう意味では上皇后さまも同じ悲しみを経験されている。皇太子妃時代の1963(昭和38)年3月、宮内庁は徳仁親王に次ぐ第二子のご懐妊を発表したものの思わしくなく、わずか半月後に人口流産の処置がなされた。この時、巷ではまるで期待を裏切られたような声があったという。

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