相馬「ビートルズ珈琲店」台風豪雨の苦闘奮闘感涙記

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「中村珈琲店」という喫茶店が今年4月、福島県相馬市でオープンした。

 中村とは、国重要無形民俗文化財「相馬野馬追(のまおい)」で知られる旧相馬藩の城下町の名。一見地味なネーミングだが、店はコーヒーの香りとともに「ビートルズ」を流し、毎月ライブも企画する。東日本大震災の被災地となった「相馬の中心でビートルズを発信し、海外からも客を呼ぼう」という、50年来のマニアでバンドも率いるオーナーの夢の店だ。

 10月、相馬の街は2度の豪雨水害に見舞われたが、珈琲店は奇跡のように浸水を免れ、休息を求める住民の憩いの場になった。秋の音楽イベントも中止になる中、珈琲店のライブは変わらず続く。

炊き出しの配達に歩く

 10月25日夜、台風21号とともに発達した低気圧が関東から福島県浜通り、宮城県にかけて猛烈な豪雨をもたらした。両県内の4河川が決壊・氾濫し、おびただしい家々に濁流が流れ込んだ。同月12日夜から13日未明、台風19号の記録的豪雨で推計2993戸もの浸水被害があった相馬の街は、わずか2週間足らずのうちに再び大水害に遭った。前回は中心部の南寄りを流れる宇多川があふれ、25日夜には北寄りにある小泉川の水が流れ込んだ。

 筆者の郷里の相馬は、2011年の東日本大震災を別とすれば、浜通りの街々と同様に穏やかな気候で天災の少ない土地だ。ところが25日夜からの豪雨は、12時間降水量にして229ミリと、わずかな時間で10月ひと月分を超えて観測史上最大だった。

 筆者のわずかに記憶に残る相馬の水害は、1959年の伊勢湾台風の時くらい。

 今回は、台風19号で被災した家々、店々で家族総出の後片付けがようやく進んでいたさなか、疲れ切った住民にとって「まさか」の二重被災となった。

 翌26日の土曜は快晴になった。だが、小泉川近くの通りは濁流の残した厚い泥に覆われ、それぞれの店や家では家族、従業員総出の泥のかき出しが行われていた。1軒の生花店の店主夫婦は、

「夜8時から9時ごろ、店に水が来たなと思ったら、あっという間に膝の高さまで上がった。前回(12日夜の水害)は無事だったが……」

 と語った。

「店と事務所、倉庫、冷蔵庫まで浸水し、(生花や鉢物など)商品の半分以上がだめになった」

 店の前にはかき出された泥の山ができ、水没車両も停まっていた。

 その日の午後遅く、清掃作業たけなわの店に長靴、ジャンパー姿で訪ねてきたのが桜井一枝さん(63)。中村珈琲店のオーナーが夫の茂紀さん(63)だ。

 手にしていた白い包みに入っていたのは、店主と一緒に作業する家族の分と合わせた手作りハンバーグ弁当。桜井さん夫婦は店主と同級生で、珈琲店の一角を長男が借りて生花店の支店を出している。

 弁当は、一枝さんが珈琲店で女性スタッフと準備した炊き出しだった。この時に配達した先は、やはり12日夜の水害を免れながら今回浸水被害を受けた家具店の家族、前回の水害と併せ二重の被災となったJR相馬駅近くの民家や家電店、地元のケアマネージャー宅など。午前中は昼食のおにぎり弁当も届けた。

「みんな、同級生や夫のバンド仲間ら、縁のある人たち。こんな時だもの、困っていればお互い様。できることで助け合わなきゃ」

 住民の苦闘の1日がやっと暮れかけた帰り道で、一枝さんはそう語った。

浸水を免れた小さな奇跡

 中村珈琲店は、相馬駅から歩いて5、6分ほど、目抜き通りの栄町商店街から少し奥まった瀟洒な煉瓦色の建物。前の花壇にオレンジ色のコスモスが咲く。街中の通りという通りを濁流が巡り、周囲のスナックや居酒屋は片付けのさなかというのに、珈琲店はきれいなままだ。

 すぐ近くの栄町交差点は12日夜の水害の折、膝高の水に沈んでいたのに。

「ここだけに水が上がらなかった、なぜか2度とも。だから店を開けてコーヒーを出したり、炊き出しができたりするんだけど。守られたのかな」

 と、一枝さんも不思議がる。

「100円コーヒー」の文字が、店の入り口の立て看板にある。「中村珈琲ブレンド」は1杯500円とメニューにある。いきさつを、カウンターで茂紀さんに聴いた。

「12日の豪雨のためにダムの給水管が流失して市内全域が断水になり(1週間ほどで順次復旧)、街の人は飲み水にも不自由した。幸いに店は無傷だった上、珈琲店が使う昔からの井戸水も無事だった。ミネラルウォーターを仕入れてコーヒーだけでも出そうと水害の翌日には店を再開した。まずは被災した人に一服してもらおうと紙コップの『100円コーヒー』を始め、市の避難所でも無料券を配らせてもらった」

 途方に暮れながら一服を求める客は少しずつ増え、断水中とあってトイレの提供も喜ばれた。

「いやあ、ゆうべは一睡もしなかった。裏の川がざぶざぶあふれて、いつ水が上がってくるか、分からないもの。家の前の道路をばんばん流れてた」

 一枝さんが配達から帰ると、相馬の北隣、新地町から来たという年配の男性がパスタをほおばっていた。食事もできぬまま疲れ切っていたそうだ。

「そんな最中に『危険だから避難してくれ』と言われても、あんな水の中を出られない。車も動かしようがない。死んでしまうよ」

 客たちもやっとお腹を満たし、温かいコーヒーで生気を取り戻す。寡黙だった口から、一枝さんらを相手におしゃべりが流れ始める。

 茂紀さんは「桜井建設」という住宅建築会社を経営し、災害復旧も仕事の内だ。前夜、街がどんな状況かを確かめようと水浸しの街を歩き回ったという。一夜明けると「SOS」の電話を待って、いつも作業チームを組む仲間を被害のひどい店や家に派遣した。夕方近くの中村珈琲店には現場で奮闘したメンバーも戻り、話の輪に加わった。

「うちは12日の水害を免れたが、ゆうべは早めに避難所に行って泊まった。100円コーヒーの無料券を配って顔見知りになった人がいたよ。ただ帰宅したら、たった1センチ、床上浸水していた。それでもきょうは人助けをしたよ」

 泣き笑い話に、同情と慰労の声がカウンターの常連から集まった。こんな時のコーヒーは「命の水」だ。 

 そうしている間にも、中村珈琲店には有線のビートルズの歌声がエンドレスで流れている。『エイトデイズ・ア・ウィーク』『アイル・ビー・バック』『アイ・ワナ・ホールド・ユア・ハンド』『サムシング』『ア・デイ・イン・ザ・ライフ』……。

半世紀のビートルズ愛

 相馬の街が2度も水害の被災地となって、店はいっそう、心を癒せる貴重な空間になった。

 内装は、エレキギターなどに用いられる木材ローズウッドの落ち着いた色と、鮮やかな赤。壁にリッケンバッカー325やエピフォン・カジノなどのギター、ヘフナーのバイオリン型ベースなど、ビートルズのメンバー愛用と同型の楽器類、ジャケットを見ただけで心浮き立つレコードの数々。ビートルズの故郷、英国リバプールなどで買い集められたお宝グッズも並べられている。すべて茂紀さんのコレクションだ。

 1966年のビートルズ来日コンサートをテレビで見た記憶があるという。2人の兄がファンで、小学5年の時に『オールディーズ』(1966年発売のベストアルバム)を初めて聴いて洗礼を受けた。長兄が東京の大学を卒業してバンド仲間の楽器を持ち帰ったのがきっかけで、自分も小学6年からバンドを始めた。

「当時の俺の脳みそは、赤塚不二夫、植木等、ボブ・ディラン、そしてビートルズで埋まっていた」

 と言う。1970年4月にビートルズは解散。最後のリアルタイム世代となった茂紀さんは、中学の卒業式の謝恩会で『レット・イット・ビー』を演奏。長髪でポール・マッカートニーのようにピアノを弾いて歌った。相馬出身の筆者も同級生の1人で、驚きと羨望の思いで聴いたのを思い出す。

 実家は老舗の建設会社だった。自身は、バンドを高校3年の夏休みにやめ、東京の大学大学で建築を学んで中堅住宅メーカーに就職。大手との競争の中で新規開拓に情熱を燃やし、マーケティングも営業もこなした。「お客の前でフリーハンドでパース(立体図)を画き、積算もできた。提案から契約までその場で決めた」

 と言い、15年続けて全国トップのセールスマンだった。その後、実家に呼び戻されたが、バブル景気が弾けて業界は冬の時代になり、2002年に一枝さんと桜井建設を設立して独立。マーケットを仙台や関東に広げて得意先を開拓し、各地に住宅やアパートを建てた。

 新たな転機となったのが、2011年3月11日の東日本大震災。とりわけ東京電力福島第1原子力発電所事故のため、南隣の南相馬市、双葉郡の人々が避難者となって相馬市内に住まいを求めた。

「大地震で壊れた家を30軒余り修復した後、木造住宅の新築も手掛けた」

 自宅の隣に建てたアパートも、避難者や被災地の企業の借り上げ社宅として埋まった。その家賃収入を元手に、茂紀さんが思い立ったのが、会社事務所を兼ねた自宅の一角に音楽スタジオをつくることだった。

「若い人たちのバンドに使ってもらおう、と考えた。原発事故のために(JR常磐線の)南相馬への電車が不通になり、そこの貸しスタジオに通っていた高校生らのバンドの練習場所がなくなった。福島県の後押しをもらって青少年文化育成活動のNPOを立ち上げ、2011年12月に手づくりスタジオを開放した。小中学生のバンドや高校ギター部も練習に来て、俺たちと仲良くなり、かわいい弟分のように付き合ってきたよ」

 古里に戻ってから昔の仲間らとバンド活動を再開していたが、本格的なアンプ類もそろえた自前のスタジオは、茂紀さんの少年時代のビートルズ熱もよみがえらせた。

「練習だけでなく、ライブ演奏ができる店をつくりたい」

 という夢につながってゆく。

ストロベリーフィールズ

 中村珈琲店のある場所は、もともと茂紀さんの祖母が残した家の敷地の一角だ。古い家には、いまは荒れているが和風の広い庭があり、初夏に見事な花房が広がる藤棚、風情のある池が健在だ。

 茂紀さんがイメージを重ねたのが「ストロベリーフィールズ」。かつてリバプールへの旅で訪ねた、古い庭園のある孤児院跡だ。子ども時代に忍び込んでは遊んだジョン・レノンのノスタルジックな名曲『ストロベリー・フィールズ・フォーエバー』で有名になった。茂紀さんの店づくりの構想は一気に膨らんだ。

「この環境を生かせれば、店はもっと魅力的になる。ウッドデッキを出して藤棚を見せたり、庭を手入れして散策もできるようにしたり。7月の相馬野馬追の観光客が立ち寄り、外国からも人が訪れる場所にできる。夜はもちろんライブを楽しんでもらう。そして、そこで流れる音楽は、世界中の人が楽しんでくれるビートルズ。この小さな相馬の『ストロベリーフィールズ』から、いずれ世界にも発信したい」

 この構想に大賛成したのが、茂紀さんの音楽仲間の1人で、自身は相馬で初めての市民合唱団「エスポワール」をつくった草野清貴さん(72)。やはり地元の建設会社の経営者で、相馬商工会議所の会頭を務める。

「活気ある漁港、美しい海の観光地にも恵まれた相馬は、東日本大震災と原発事故の風評で大きな痛手を受け、いまなお復興の途上だ。市民を元気にするのは音楽。相馬は、全国に知られる民謡の里でもある。誰もが参加できる音楽の街づくりを進めたいんだ」

 草野さんの提唱で昨年7月、祭りの季節に合わせて「野馬追の郷 歌うま大会」(市観光協会主催)という市民のど自慢イベントが催され、11月には茂紀さんも実行委員会に加わる初の野外音楽祭「SOMA音フェス2018」(商工会議所など主催)が開かれた。地元の子どもオーケストラや合唱団から、県内外のフォーク、ロック、ジャズのグループなど23団体が出演し、茂紀さんが率いる「SCCハウスバンド」の仲間たちのスペシャルユニットが大トリでステージを盛り上げた。

「第1回は大成功だった。音楽の街づくりを根付かせるためにも、ビートルズのライブの店をぜひ開いてほしい。俺も常連になるよ」

 と、草野さんは期待を込めた。

それでもライブを続ける

 茂紀さんが夢を実現し、3000万円を掛けて中村珈琲店をオープンさせたのは今年4月20日。東京や横浜でバリスタ修業をした店長が入れるコーヒー、吟味して選んだシンガポールの「TWG」の紅茶、チーズケーキと生パスタに、昼は女性客のグループがやって来た。夜にはハイネケンやスコッチ、バーボンが出され、カウンターは男性客でにぎわう。

 外国人らも来店している。野馬追は初日、市内の中村神社からの騎馬行列出陣が呼び物だが、中村珈琲店にはポルトガル人や米国人ら3組の見物客が立ち寄った。地元高校のALT(外国語指導助手)教師が客に加わり、野馬追と馬をテーマに調査で滞在した米イリノイ州立大の日本人研究者はひと月店に通った。

 呼び物のライブ企画は月ごとに、名古屋のロックバンド「センチメンタル・シティ・ロマンス」の元メンバー告井延隆さんのソロギターによるビートルズ、茂紀さん、一枝さんが仙台などに足を運んで聴いた「本物」のアマ・ミュージシャンの招聘ライブ、地元のギタリストと女性ボーカルのデュオなど多彩で、その度に店は満席になる。

 草野さん肝煎の「SOMA音フェス2019」(当初、11月3日の開催予定)が近づき、店の話題も盛り上がりつつあったころだ。冒頭で触れたとおり、台風19号が予期せぬ豪雨を福島、宮城両県内に降らせた。

 相馬市内では、伊勢湾台風以来実に60年ぶりに宇多川が氾濫。桜井家の事務所兼自宅とスタジオは床上まで川の水をかぶり、

「宝物にしていたギター、ライブに必要なアンプ類を急いで救い出したけれど、スタジオは水浸しになった」

 一枝さんと水だけは掻き出したが、床は泥まみれだった。車庫に置いた自家用車も避難させきれず、大事なダンプカーが水没し動かなくなった。

 翌朝には、宇多川の氾濫箇所に近い、市内でも水害が最もひどい地域の住民から復旧の依頼が寄せられ、茂紀さんは自宅の片付けを一枝さんに託して現場に向かった。

 上流のダムから相馬市内につながる給水管が流失し、断水も始まった。

「親しい人たちが皆、被災者になった。自宅もスタジオも後で何とかなるだろうと後回しにした。中村珈琲店が浸水を免れたことが唯一幸運だった」

 ところが、そこへ冒頭のような2度目の豪雨水害が来た。

 草野さんは市民の苦境を鑑み、やむなく「SOMA音フェス2019」を中止せざるを得なかった。

「音楽の街づくり」の灯は消えてしまうのか――。

「いや、中村珈琲店のライブは続けるよ」

 家々の復旧現場を巡りながら、茂紀さんは先へ希望をつなごうとした。

 バンドの絆でつながる仲間も思いは同じ。

 25日夜の水害の翌々日、「自分たちの手で練習場所を復活させよう」とスタジオに有志4人が集い、茂紀さんを手伝って高圧洗浄で泥を洗い流した。

 誰もが被災者の境遇ながら、手づくりスタジオと中村珈琲店がはぐくんだ街のライブの場は、それぞれにかけがえのないものになっていた。

 中村珈琲店の次のライブは、11月26日夜。茂紀さんのバンドのビートルズを前座に、仙台出身のシンガーソングライター佐野碧さんが歌う。その練習も再開するつもりだ。

寺島英弥
ローカルジャーナリスト、尚絅学院大客員教授。1957年福島県相馬市生れ。早稲田大学法学部卒。『河北新報』で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)などの連載に携わり、東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』『福島第1原発事故7年 避難指示解除後を生きる』(同)。3.11以降、被災地で「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を書き続けた。ホームページ「人と人をつなぐラボ」http://terashimahideya.com/

Foresight 2019年11月2日掲載

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