【ブックハンティング】経営学者が「やはり終身雇用はやめるしかない」と考える理由

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 裏表紙に「『最新経営学』で日本企業を復活させる!」という威勢のいい惹句が躍っている。出版社の編集者(著者本人が書いたとは思えない)が思わずこういうキャッチフレーズをつけてしまう。ここに昨近のイノベーションをめぐる言説が悪い意味でよく象徴されているように思う。本を1人でも多くの人に届けたいという気持ちはよく分る。しかし、それにしても、いかにもとってつけた言葉だと思う。

惹句に以下の口上が続く。

「米国のやり方」を真似すれば、日本の生産性は向上するはず――そんな思い込みが、日本経済をますます悪化させてしまう。米・英・蘭・日の名門大学で研究を重ねた経営学のトップランナーが、「野生化=ヒト・モノ・カネの流動化」という視点から、イノベーションをめぐる誤解や俗説を次々とひっくり返し、日本の成長戦略の抜本的な見直しを提言する。

 私見では、本書『野生化するイノベーション』はそういう本ではない。「イノベーションをめぐる誤解や俗説を次々とひっくり返」すといった“刺激的で面白い”本ではない。「日本の成長戦略の抜本的な見直しを提言する」といったスカッとした処方箋を伝授する本でもない。むしろ、その手のありがちな本でないというところに、本書の固有の魅力がある。

 もし評者が編集者だったら、こう書き直す。ちょっと長すぎるかもしれないが、この本の意義と価値はこういうことだと思う。

「米国のやり方」を真似すれば、日本の生産性は向上するはず――そんな思い込みが、日本経済をますます悪化させてしまう。しかし、米国のやり方を真似すれば、日本の生産性は確かに向上する面もあるのだから話は難しい。日本には確かに問題がある。しかし、どんな国や地域であっても、全面的に優れた制度とか、全面的に劣った制度というものはない。生産性やイノベーションの文脈では、どこの国にも良いところと悪いところが混在する。さらに厄介なことに、どこでも良いところと悪いところが補完的な関係でしっかりと結びついている。そこにジレンマがある。そもそもイノベーションそれ自体が多元的なジレンマをはらんだ現象である。その性質からして、「日本の成長戦略の抜本的な見直しを提言する」のは容易ではない。確たる答えはもとよりない。しかし、日本の成長戦略を描くための建設的議論の基盤をつくることはできる。それはイノベーションという現象とそれが持つ意味についての俯瞰的理解である。経営学のトップランナー(評者注:著者が経営学のトップランナーというのはまったくその通り)が、多岐に渡る学際的な研究が確立した知見を精査し、イノベーションを正しく理解するための本質的な論点を提示する。

俯瞰して現象の本質を明らかに

 イノベーションについての本というと、イノベーションをもたらした画期的なプロダクト(iPodやiPhone)であるとか、それを生み出した企業(アップル)、そこで中心的な役割を果たしたリーダーやイノベーター(スティーブ・ジョブズ)、はたまたそうした「イノベーティブな会社」の組織やマネジメントの諸特徴を記述するもの(アダム・ラシンスキー『インサイド・アップル』=早川書房=)が多い。

 例えば、評者が最近解説を書いた本にメリッサ・A・シリング『世界を動かすイノベーターの条件』(日経BP社)がある。なぜある種の人は並外れてイノベーティブなのか。イノベーターとはどのような人々なのか。普通の人とイノベーターを区別するものは何か。こうした問いに、マリー・キューリー、トーマス・エジソン、アルバート・アインシュタイン、スティーブ・ジョブズなど8人のイノベーターの調査を通じて答えようという本だ。このように、イノベーションについての本の多くは、特定の商品や技術、組織、個人に注目するミクロな視点に立っている。

 空間的にも時間的にも一貫してマクロな視点からイノベーションをとらえる。ここに本書の特徴にして魅力がある。序章のサミュエル・スレーターのエピソードのように、個人に注目する部分もある。しかし、これにしても、目的は「移動する」「飼いならせない」「破壊する」「経験的な規則性がある」というイノベーションのマクロな本質の説明にある。

 著者は個人や組織よりもはるか上空からイノベーションという大きな現象を俯瞰し、その全体像をとらえようとする。「社会」の視点と言ってもよい。しかも、観察と考察の時間幅が長い。このことは、イノベーションという本来的にダイナミックな現象の本質を明らかにするうえで重要な意義を持っている。

「富士フイルムとコダック」から見えるもの

 第1部に、イノベーションの3つの条件を論じた章(第3章)がある。まず出てくるのが「私有財産制度」。いかにもマクロ。この辺がイイ。イノベーションが持続的に起こるためには「イノベーターが得をする」というインセンティブがなければならない。そのためには私有財産制度の確立が前提として欠かせない。言われてみれば当たり前だが、物事の根本のところから説き起こしていくところに本書の視点の強みがある。しかも、自由権や私有財産制度、さらには近代に入ってからの知的所有権といったイノベーションのインフラを、1215年のイギリスのマグナ・カルタに立ち戻って考察する。

 イノベーションが持続的に生み出されるようになったのは、18世紀のイギリスで起きた産業革命に端を発している。ところが19世紀後半から20世紀にかけてはイギリスの製造業はほとんどイノベーションを生み出せなくなった。これはなぜか。企業家や発明家の資質といったミクロな要因では説明できないマクロなパターンがイノベーションにはある。こうした長い時間幅を取って初めて見えてくるイノベーションの本質、そこを押さえなければ日本の「失われた20年」の真因もつかめない。歴史学をバックグラウンドとする著者の本領発揮である。

 マクロ視点の妙味を如実に示す例として、コダックと富士フイルムを比較する議論が面白い。一時は圧倒的なリーダー企業だったコダックはカメラのデジタル化というイノベーションの波の中であえなく倒産してしまう。富士フイルムはヘルスケアや化粧品へと事業を転換し、「イノベーションのジレンマ」を回避し生き延びた――。

 しかし、社会レベルで俯瞰すれば「富士フイルムの勝ち、コダックの負け」というのは早計だと著者は言う。コダックには同じような技術があった。そうした技術を持っていた多くの優秀な技術者は早々にコダックを離れて、自らビジネスを展開していた。コダックの研究所があったニューヨークのロチェスターには、メディカル画像システムのケアストリームヘルス、医療用ソフトウェアのロジカル・イメジィズといった、コダックから派生したヘルスケアの新興企業が数多く存在する。

市場メカニズムのメタファーとしての「野生化」

 本書に一貫した切り口が「野生化」なのも、それがそもそもマクロな視点での考察と議論をするうえで有用だからである。野生化とは資源の流動化のメタファーだ。あっさりいえば、市場取引。企業組織などの管理された枠組みに縛られない市場メカニズムによる資源動員を意味している。上記したコダックと富士フイルムの違いは、そのままヒトという資源に注目した野生化の程度の違いとして理解できる。

「野生化」がメタファーとして優れているのは、それが「何ではないか」がはっきりすることにある。組織的に「飼いならす」「管理する」とは逆の動きだという意味合いが「野生化」という言葉に込められている。日本の社会や制度は、野生化の程度が低すぎた。第2部「日本のイノベーションは衰えたのか」のメッセージを一言で言うと、そうなる。

 野生化して流動性が高まればビジネス・チャンスの追求も機動的になり、イノベーションが生まれ、社会的にも生産性が高まる。よくある議論だし、そこには一理も二理もある。しかし、野生化とは一面では破壊を意味する。野生化が行き過ぎると社会レベルでさまざまな問題が生まれる。第1部で詳細に議論されているように、イノベーションはそもそも野生化と親和性が高い。しかも、イノベーションはさらに経済社会を野生的なものにしていくという相互強化の循環的なメカニズムがある。ここにジレンマがある。

 本書のマクロな視座がもっとも活きているのは、野生化のジレンマを掘り下げる第3部である。資源の流動性を高めるとすべてがうまくいくかというそうではない。失業や格差の問題は出てくる。「手近な果実」の議論にあるように、野生化が当のイノベーションにとってもネガティブに作用することもある。

 では、どうするべきか。日本がイノベーションによって生産性と成長を取り戻すためには何が必要か。タイトルを構成する「野生化」と「イノベーション」、両方とも多元的なトレードオフを内包している。それをかけ合わせた「野生化するイノベーション」となるとジレンマに満ち満ちている。安易な処方箋はあり得ない。それでも著者がさまざまなジレンマのそれぞれを頑健な論理と研究蓄積に基づいて見せてくれたおかげで、今後の建設的な議論のための地ならしはできた。この先はわれわれの思考と行動にかかっている。

「野生化」の過少

 最後に、評者個人の読後の私見を簡単にお話ししたい。

 野生化には確かにトレードオフとそれゆえのジレンマがある。トレードオフとはA(野生化)を追求するとB(雇用の安定や、累積的なイノベーションへの資源投入の継続を必要とする「ジェネラル・パーパス・テクノロジー」)が阻害されるという二律背反の関係を意味している。

 しかし、すべては程度問題である。確かにAが行き過ぎるとBは失われるのだが、それは一定程度以上にAが進んでいてはじめて表面化する悪影響だ。あまりにAが低い水準にあれば、それを今より多少増大しても、Bはそれほど失われない。ケーキの食べ過ぎは体に悪いが、日常の摂取カロリーが低すぎてがりがりに痩せている人は、意識的にシュークリームでも食べてカロリーを取ったほうがかえって健康になる。つまり、Aが過少でBが過剰であれば、Bに及ぼす影響をあまり気にせずに、Aのメリットを享受できる。Aを野生化とすると、日本の制度にはあまりに「野生過少」な分野がある。まずはそういうところにターゲットを定め、そこで集中的・意識的に野生化を進め、「飼いならし」を破壊するというシナリオが見えてくる。

 本書から学んだことの中で、日本の野生過少をはっきりと感じさせるのは、長期雇用に代表される「日本的経営」だ。日本でも非正規雇用が増えている。これは流動性の増大という意味で一面では野生化だが、むしろ正社員の長期雇用という今までのやり方を守るために非正規雇用を増やしてきた結果というフシがある。イノベーションによって正規雇用が破壊されないように、適用範囲を縮小して「日本的経営」を維持しているわけで、高度成長期に成長の手段だった長期雇用が、目的化してしまっている。それがかえって格差(とりわけ低所得層の固定化)をもたらすという皮肉な成り行きだ。

 これほどまでに成熟した日本で、ほぼ無条件の長期雇用、しかも昇進や処遇は年功序列というのはいかにも野生過少である。私見では、ここを野生化する、すなわち従来の日本の大企業に典型的な長期雇用慣行を止めることは急務であると思う。ここにメスを入れれば、非正規雇用の範囲で急速に進んだ野生化が広く薄く全体へ行き渡る。部分的な野生化がかえって全体の野生を縮小することにもなる。

 いずれにせよ、昭和の高度成長期の特殊な条件下で(のみ)有効だった「正社員」の「長期雇用」は、もはや損失が大きすぎる。ここでの野生化は、イノベーションに限らず、さまざまな経路で日本の生産性を高める可能性が大きい。少なくとも、伸びしろは大いにある。裏を返せば、それだけこの20年以上にわたって野生過少だったということだ。

 経団連のトップや日本を代表する大企業の経営者からも終身雇用について懐疑的な意見が表明されるようになった。さすがに(一部の)リーダーはこのことに気づきつつある。本書にはそうした人々の背中を押す知見がふんだんに詰まっている。

楠木建
一橋ビジネススクール国際企業戦略専攻(ICS)教授。専攻は競争戦略。1964年、東京生まれ。幼少期を南アフリカで過ごす。一橋大学商学部卒業、一橋大学大学院商学研究科修士課程修了。同大学商学部専任講師、同助教授、一橋大学イノベーション研究センター助教授、ボッコーニ大学ビジネススクール(ミラノ)客員教授、一橋大学大学院国際企業戦略研究科准教授を経て、2010年より現職。著書に『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(東洋経済新報社、ビジネス書大賞受賞)、『経営センスの論理』(新潮新書)、『すべては「好き嫌い」から始まる』(文藝春秋)、『戦略読書日記』(ちくま文庫)など多数。

Foresight 2019年10月5日掲載

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