故・シラク仏大統領「日本との出会いがあったからこそ当選できた」と発言

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橋本龍太郎首相とウマが合った

 シラク氏が大統領だった95年から07年までの12年間、日本の首相は村山富市首相から安倍晋三首相(第1次政権)まで6人を数えるが、訪仏した各首相に対して大統領は毎回、工夫を凝らしたもてなしを演出した。6人の首相の中でもっともウマが合ったのが橋本首相だった。2人の出会いはシラク氏が大統領に当選した直後の95年6月、日本と欧州連合(EU)の首脳会議のため、村山富市首相と通産相だった橋本氏ら主要閣僚が訪仏した時だった。

 吟醸酒や純米酒など日本酒も用意されたエリゼ宮での昼食会では蒙古襲来が話題となった(シラク大統領はワインが余り好きでなく、日本酒の愛好家でもあった)。日本の歴史と文化に詳しい大統領が、フランス側出席者に源義経は平泉で亡くなったのではなく、モンゴルに逃れ、チンギス・ハンになったという伝説があると話したのがきっかけだった。

「なぜ元は日本を屈服させられなかったかご存知ですか」と大統領。

「カミカゼが吹いたからです」と橋本氏。

「それは第1回のときで、私が言っているのは2回目の1281年のことです。あのとき、日本は元の兵力に上陸を許しましたが、それを再び押し返しました。自力で国を守ったのです」と大統領。

 年号までスラスラ出てくる大統領に日本側は押されっぱなしで、「橋本氏一人が頑張っていました」と居合わせた松浦晃一郎・駐仏大使は語っている。このとき、シラク、橋本両氏が互いにウマが合うと感じたことは想像に難くない。

 2人に共通しているのは読書家で、文化の造詣が深く、知的好奇心を刺激する会話を楽しむことだった。日本では理屈っぽいと受け止められた橋本氏は、論理を重視するフランス人と波長があった。その率直な物言いも好感を持たれた。

 橋本氏は首相になると96年にシラク大統領を国賓として日本に招いた。先に触れたようにシラク大統領の希望に応え、97年の百済観音のフランス展示を支援した。この返礼で、大統領は99年に、「日本におけるフランス年」の目玉として、門外不出のルーブル美術館所蔵の「民衆を導く自由の女神」を、同美術館の反対を押し切って東京国立博物館に貸し出した。

 橋本氏は首相を辞任後、日仏賢人会議、日仏友好議連会長、また日仏対話フォーラムの共同議長をシラク大統領と共に務めた。03年6月、パリで日仏賢人会議と日仏友好議連の会議が開かれた折、シラク大統領は橋本氏と2人だけの昼食会をもった。

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