人魚姫が足から血を流す! 「リトル・マーメイド」の怖い原作

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「美女と野獣」「アラジン」に続いてディズニーの名作アニメ「リトル・マーメイド」が実写化されることが報じられ、話題になっている。物議を醸したのは、マーメイド、アリエル役に黒人女性歌手、ハル・ベイリーが抜擢された点だ。

 アニメ版の「リトル・マーメイド」のアリエルはどう見ても色白だったし、東京ディズニーシーの「マーメイドラグーンシアター」に登場するのもその世界観を踏襲した女性。そのイメージが強いだけに、大胆な改変には大きな反応が示されたのだが、実のところディズニーの数々のヒット作は、原作を大幅に変えることで魅力を増してきたという歴史がある。

 ディズニー関連の著作が多い有馬哲夫・早稲田大学教授は、著書『ディズニーの魔法』の中で、「残酷で暴力的で、しばしば猟奇的で倒錯的ですらある」原作を、ディズニーがリメイクする際に子供やカップルが安心して楽しめるものにしたのだ、と述べている。

 実際にどのような加工が行われたのか。「リトル・マーメイド」他、ディズニー作品と原作との違いを『ディズニーの魔法』をもとに見てみよう。これから原作や映画を見るという方は以下、ストーリーに触れることをご承知いただきたい(以下、引用は同書より)。

悲恋ファンタジー「人魚姫」

 原作となったアンデルセンの「人魚姫」は一言で言うならば「悲恋ファンタジー」だ。

 人魚姫は海の魔女から魔法の薬を貰って人間に変身する。この薬を手に入れる代償として、人魚姫は魔女に「声」を奪われる。

 魔女の示す条件にはさらに先があって、もし人魚姫が王子の愛を得られず、王子が他の女性と結婚することがあれば、彼女はその日の朝には「海の泡」になってしまうという。

「これは人魚の世界では、死ぬことを意味する。人魚は通常この『海の泡』になるまで、300年も生きることになっている。だが結局、王子と結ばれなかった人魚姫は、『海の泡』にはならず、『空気の娘』になり、さわやかな風になって空を飛び、300年のちには『永遠の魂』を得ることになっている」

 かなり奇想天外な展開の背景には、当時のヨーロッパにある「万物照応」という考え方がある。神が創造した世界にあるものは神のデザインや意図にしたがって存在する。そこで、あらゆるものは照応関係を持つことになる、という考え方だ。

「たとえば、人間世界に王や貴族を頂点とする存在のヒエラルキーがあるように、海に住む生き物にはクジラやイルカを頂点とするヒエラルキー、空を飛ぶ鳥たちには鷲や鷹を頂点とするヒエラルキー、動物にはライオンや虎を頂点とする(ライオンを百獣の王というのはここからきている)ヒエラルキーがある。つまり、ヒエラルキーという神のデザインに基づいて人間や動物は存在し、そのあり方が決まっている」

 そして、海の上に王国があれば、海の下にも似たものがあってもおかしくない、と彼らは考えていた。それゆえに人魚姫と王子は結ばれないことが必然となる。

「それぞれの世界は照応しながらも、別のヒエラルキーに属しており、はっきりと区別されている。

 その境界線は神が定めたのだから、勝手に越えたり侵したりしてはならない。人魚姫と王子が結ばれるということは、この境界線を越える行為に他ならない」

 つまり、王子と結ばれたいというのは願うだけでも大罪ということになる。

「人魚姫を人魚として生んだ父王や后に対してだけでなく、そのような区別や秩序をもうけた神に対する罪でもある。彼女は神と両親に対して、自分をそのように存在させたことに不満を表明し、取り消しを求めることになる。

 しかも、彼女はこの道にはずれた願いをかなえるため、悪の巣窟に住む魔女のところへいく。このよこしまな願いを聞き入れ、またかなえてくれるものは魔女しかいないからだ。

 人魚姫は人間の足と引き換えに、舌切り雀よろしく舌を切られ、『声』を失う。

 それだけでなく、彼女はその足で歩くたびに『とがったきりと、鋭いナイフの上を踏んでいるような』激痛を感じ、足から血を流さなければならない。さらには、王子が他の誰かと結婚したときは、『海の泡』となって消えなければならない」

 人魚姫がここまでの思いをしているのに、王子は隣国の姫と結婚し、人魚姫は「海の泡」になってしまう。ただし、これをアンデルセンは悲劇としてはとらえておらず、ハッピーエンドとしたかったようだ。というのも人魚姫は「海の泡」になったあとに「空気の娘たち」に変わる。そして「空気の娘たち」は、300年の間に、よい行いをすると、不死の魂を授かった上に、永遠の幸福を手に入れることもできる、と説明されている。

 人魚姫ならばきっとよい行いをして、不死の魂を授かり、永遠の幸福を手に入れるだろう――そう考える読者にとっては、これはたしかにハッピーエンドとも言える。何となく宗教色が強いけれども、こうした世界観に抵抗がない人もいることだろう。

 しかし、多くの人にとってはどちらかというと恐ろしい結末に思えるのではないか。

「このようなハッピーエンドは、私たち現代人には何かもやもやしたものを感じさせる。もっとはっきりしたハッピーエンドにできないのか、人魚姫と王子を結婚させるというハッピーエンドにできないのか、と思ってしまう。

 19世紀に生きていたアンデルセンにとっては、人魚姫のしたことは、秩序と道徳に反することで、おおっぴらに肯定することはできないものだ。その一方で、近代的自我の肥大が始まっていた当時では、彼女の願望を完全に否定し去ることもできない。だからアンデルセンは、このような条件付きのハッピーエンドにしたのだろう」

愛の勝利の物語「リトル・マーメイド」

 さて、この物語は「リトル・マーメイド」では大きく変わる。

「ヒロインであるアリエルは、明るく、屈託のない典型的アメリカのハイティーンだ。彼女は好奇心旺盛で自由を愛し、束縛を嫌う(略)。

 彼女は(原作の)人魚姫のように『分』などというものは認めていない。つまり、自分が何者かすでに決まっていて、それがこれから先も変わらないなどとは考えない。自分は変わるし、努力すれば、これまでと違った自分になれる。だから、彼女は身分だとか秩序だとか、掟だとかいったものは、一切受け入れない」

 19世紀の人魚姫とはまるで違う価値観を持っているが、継承しているところもある。

 一つは名前だ。

「アリエルという名前は、英国では、『空気の精』を意味する。(略)この名前がどこからきたか、もうおわかりだろう。人魚姫は、『海の泡』になったあと『空気の娘』になる。アリエルという名前はここからきている」

 しかし、原作と異なり、魔女の薬で足を手に入れたアリエルは、声こそ失うものの、血を流すような苦痛は味わっていない。自由に地上を明るく活発に動き回る。

 もちろんそのあと紆余曲折はあるものの、アリエルは最後に声を取り戻し、人間にしてもらい、恋も成就する。人魚姫は分を超えた願いですべてを失うが、アリエルは願いをすべてかなえたうえ何も失わない。このエンディングのほうが現代の観客にウケるのは間違いない。そして実際、この作品はディズニーが22年ぶりに作った童話に基づく長編アニメーションとして大ヒットを記録する。ウォルト・ディズニーが亡くなった後に低迷していたディズニーが息を吹き返したエポックメーキングな作品となったのだ。

 その理由の一つが、原作を大胆に変えてしまった点にあるのはここまでを見れば明らかだろう。

 こうした改変は、ディズニーの得意とするところでもあった。たとえば「ピノキオ」の原作「ピノッキオの冒険」では、「ものをいうコオロギ」は、始まってまもなくピノッキオに木槌で殺され、以後あまり登場しない。ピノッキオとジェッペット爺さんを呑み込むのもクジラではなく、フカだ。

 また「シンデレラ」の原作の一つ、「灰かぶり姫」では、いじわるな連れ子姉妹が「金の靴」に無理に足を押し込むため、それぞれかかとと足先を切り落として歩けなくなる、という描写もある。さらにヒロインは自分の婚礼のめでたい席で、彼女たちの両眼を潰して復讐するのだから凄まじい。もちろんこんなシーンはすべてアニメではカットだ。

 原作重視派は眉をひそめるかもしれない。しかし、有馬氏は「ここにこそディズニーのオリジナリティーがある」としたうえで、原作を知ればよりディズニー・クラシックスを理解でき、楽しむことができる、と述べている。映画と原作の比較は、もしかすると子供の夏休みの自由研究の対象としてもいいかもしれない。

デイリー新潮編集部

2019年8月9日掲載

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