「佐々木朗希」の登板回避、32歳監督はどうすべきだったのか 決断への“批判”“称賛”

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「決勝から逆算」「勇気ある決断」

「よそのチームのことですから、どうこう言うことではないと思いますが……」

 と言うのは、智弁学園や智弁和歌山高校で監督を務め、優勝経験もある高嶋仁氏。甲子園通算68勝は歴代の最多勝利記録である。

「苦渋の決断をした勇気は認めなあかんと思います。ただ、僕だったら、決勝から逆算して、そこで万全に投げられるように県大会全体でやりくりをすると思います。準決勝を他のピッチャーで何とかしのいだと思う。無理はさせないようにするのが前提ですが、その上で何とか甲子園に連れていってやろうとしましたね。甲子園は聖地で、成長の大きな機会でもありますから」

 故障予防のため、酷使はさせたくない。しかし、勝利は追求したい――その両立しがたい命題を抱えたまま、高まるプレッシャーの中で、独り若い監督は追い詰められてしまった。混乱状態で様々な“工夫”にまで頭が回らなかったのかもしれない。

 他方、

「勇気ある決断だったと思います」

 と述べるのは、元プロ野球選手の大野倫氏。沖縄水産高校時代、夏の甲子園で773球を投げて準優勝。ただし決勝戦では疲労骨折しながらも登板し、その後も肘の故障に苦しんだ。

「僕もそうでしたが、高校球児というのはどうしても投げたいと思ってしまうもの。憧れの甲子園となれば、無理をしてしまうものなのです。そこにあえて“予防”のためにストップをかけた国保監督の決断は、選手の故障には過剰なくらい気を付けなければいけないという“変革”の糸口になったという意味で、評価されるべき」

 と言うのだ。

週刊新潮 2019年8月8日号掲載

特集「大船渡『32歳監督』は壊れていた! 『佐々木朗希』の挑戦を後味の悪い幕切れにした『本当の戦犯』」より

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