「痛いか?」ではなく「いけるか?」 甲子園でエースたちが潰されていく理由

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 夏の甲子園は今年で100回を数える。

 かつての甲子園出場校では、チームの中に1人の大エースがいて、そのエースが最初から最後まで投げ抜くのが当たり前、という風潮が根強かった。近年では投手の肩や肘が消耗品であるとの認識が強まり、主力投手を複数作るチームも増えてきたが、それでも「エースに試合を託す」というスタイルのチームは未だに多い。

 今大会でも、例えば高知代表の高知商業はエースの北代真二郎投手が県大会を1人で投げ抜き、甲子園初戦の山梨学院戦でも12点を取られながら9回150球を投げきっている。プロ注目の金足農業・吉田輝星投手も、同じく秋田県大会を1人で投げ抜き、初戦の鹿児島実業戦で9回157球を投げきった。

 いずれもチームが勝利している以上、甲子園の戦略としては「正しかった」と言えるのかも知れないが、彼らの選手としての将来を考えれば一抹の不安は拭えない。豊かな才能を持ちながら、甲子園というシステムの中で「使い潰された」投手は、これまでにたくさんいるからだ。

 この8月、『甲子園という病』を上梓したスポーツジャーナリストの氏原英明氏は、ここ15年ほどの夏の甲子園大会を、ほぼ全試合観戦し続けてきた。
 その氏原氏が「見ていて身の毛のよだつ感覚に襲われた」と振り返る試合がある。2013年夏の甲子園2回戦、木更津総合対西脇工業戦だ。(以下、引用は『甲子園という病』による)

スタジアムがざわついた「山なりのボール」

「1回表の木更津総合の攻撃は二つの安打などで1点を先制。攻守が入れ替わり、事件は起こった。
 守備に就く木更津総合の選手紹介アナウンスが甲子園に流れたが、その刹那、スタジアムはややざわついた。そう大きいものではなかったものの、いつもとは異なる雰囲気だったのは間違いなかった。
 1回裏、木更津総合の先発・千葉(貴央)が1球目を投じると、そのざわめきの正体が何であるかはすぐに理解できた。
 千葉は初球、これが全国大会の舞台で投じる球なのかというような、山なりのボールを投げたのだ。2球目、3球目、4球目……。そして、カウント3ボール2ストライクからの6球目も同じような山なりのボールを投じたのである。それは投球練習からすでにそうだったのだ。
 西脇工業の第1打者は虚をつかれたのか、空振り三振に終わったが、明らかに分かったのは、千葉の右肩が悲鳴を上げていたことだった」
 
 結局、千葉投手はこの後、マウンドを降りている。スタンドで観戦していた氏原氏は、「マウンドを後にする選手に送られる観衆の拍手が、これほど空しく感じられたのは初めてでした」と振り返る。
 
 当時2年生だった千葉投手は、結局3年生の夏は2試合に登板したのみで高校野球を終えている。大学は強豪の桐蔭横浜大学に進んだが、3年生の時点で公式戦の登板は一度もない。いわば、甲子園という舞台でその身を滅ぼしたに近かった。

痛みの積み重ねは小学生時代から

 
 氏原氏は、その千葉投手を2017年秋に取材した。意外にも、彼の口から出てきたのは恨み節ではなく、自省の言葉だった。
 
「ケガでふがいないピッチングしかできなかったのは野球に申し訳なかったですね。このままの状態でマウンドに立つのは甲子園に申し訳ない。そんな気持ちでした」
「ケガで投げられなかったことも悔しかったんですけど、高校の監督さんが周りから批判を受けていることが一番辛かったです。僕は本当に五島(卓道・木更津総合)監督を信頼していました。監督さんが僕を無理やりに登板させたわけではなく、自分からわがままを言って投げていたのに、批判を受けているのは苦しかったです」
 
 当時大学3年生。それまで公式戦で投げられてはいなかったが、練習試合では登板し、ようやく復調してきたところだった。
 
 実は千葉投手、小学生のころから身体に痛みを抱えていたのだという。
 
「でも、痛くてもごまかしながらできていたんです。中学から変化球を投げるようになったんですけど、スライダーを投げる際は肘が痛まなかった。だから、スライダーでかわすピッチングで抑えていました。その後も痛みを我慢して投げていたんですけど、高校1年の秋くらいから肩が痛くなって、それからはごまかしながらやるのが難しくなった」
 
 千葉投手は、小学校低学年の時からとにかくボールを多く投げたという。活動のメーンは土日だが、それでも「練習などのキャッチボールを含めれば、1日300球くらいは投げていた」と言う。
 
 部活動になった中学時代の野球部では投げる日数は増えた。週に4日くらいはピッチング練習をした。変化球も習得し、大会になるとWヘッダーは当たり前。公式戦では1度、1日の連投も経験したという。
 
 高校2年の時の千葉県大会では、準決勝と決勝に先発。2日間の連投で300球を超える力投で連続完投勝利。チームを甲子園出場に導いた。
 とはいえ、この2試合すら痛み止めを打って投げていたほどで、優勝決定後は「洗顔するのも辛い」くらいだった。
 
 それでも甲子園で投げることに迷いはなかった。
 
「試合でマウンドにあがったら、何とかかわすピッチングで抑えることができるという自信があったんです」
 
 1回戦の上田西戦でも先発し、135キロのストレートを見せ球に、スライダーを多投して5失点完投勝利。事件が起きた2回戦の西脇工業戦も同じ気持ちで試合に臨んだが、すでに身体が限界を超えていた。

続投を無意識に望む指導者たち

 こうした事態を招いた原因として、「指導者の責任」を問う声はもちろんある。優秀な指導者ならば、主力選手の変調には気づくはずだからだ。
 しかし、一発勝負のトーナメントで勝ち上がっていくには、「できるだけエースに投げ続けてもらいたい」というのが指導者の偽らざる本音だろう。
 
『甲子園という病』の中で、千葉投手は興味深い話をしている。
 
「痛みは本人しか分からないから『痛いときは言え』と指導者からは言われるんですけど、指導者の方から『痛いか?』と状態を聞かれることはなかったんです。いつも聞かれるのは『いけるか?』です。でも、そうなると『いけます』としか言えないですよね。それが選手の心理だと思います」
 
 指導者は心の底では、「投げてくれ」と願っている。それが、選手への聞き方に出てしまうのだ。
 
 一方、痛みを我慢してでも投げたいのは投手も同じだ。驚くべきことに、千葉投手はあの試合に戻れば「やっぱりあの場所で投げたい」と言う。千葉投手は「甲子園が魅力的すぎる」とその存在を語っている。
 
 今や球界を代表するエースに成長した西武の菊池雄星投手も、高校3年の夏、背中の痛みを抱えながら甲子園のマウンドに立ち続け、「腕が壊れてもマウンドにいたかった。今日が人生最後の試合になってもいいと思いました」と試合後のインタビューで語ったことがある。甲子園の魅力とは、かくも恐ろしい。幸い菊池投手は復活したが、復活できなかった選手のことは皆が忘れていくだけである。
 
「甲子園大会が、負けたら終わりのトーナメント方式を続ける以上、指導者は『投げさせたい』し、エースも『投げたい』。この気持ちは変えられない。だから、トーナメント方式を変えないというのであれば、球数や登板間隔などに何らかの制限をかけて、未来ある選手たちの成長に資するルールを導入する必要があります。せっかくの才能を潰し続けていいはずがありません」(氏原氏)

デイリー新潮編集部

2018年8月11日掲載

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