山口「八つ墓村事件」、保見光成死刑囚が弁護士にも語らなかった“田舎暮らしの地獄”

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絶望の地と化した故郷

 保見死刑囚の育った金峰の集落には「オキへ出る」という言葉がある。オキとは集落を離れ、「町」へ出て行くことを指すのだ。付近の集落の者がこう話したことがあった。

「オキへ出て行った者は、郷里を捨てた者。都会でいい思いをして戻ってきたからといって、山の中でずっと耐えてきた者の気持ちなどわからん」

 そんな言葉もまた、素直なものだろう。進学、就職というかたちで、金峰の集落から皆、オキへ出て行った。その中で、故郷に残り、過疎地となり日本全土の発展からは置き去りにされ、不便さに耐えてきたという意識が、留まり続けた者の心にはある。

 それはともすれば、オキに出て“楽”をしている者たちの“犠牲”になったという意識につながりえないだろうか。それが同じ郷里の者でありながらも、一度オキに出て行って戻ってきた者に対する、どこか素直には受け止めきれない、気持ちのねじれ、付き合いのゆがみにつながってはいまいか。

 保見死刑囚が辿った人生の顛末は、経済成長の果てが生んだ地域格差の、極めつけの悲劇であるようにも思えてならない。

 彼が比較的、心を赦したと思しき知人の1人は、声を潜めて「保見死刑囚に差し入れてやってくれ」と言って、ある時、1冊の般若心経を私に託した。その知人もまた、若い頃に集落の外で働き、理由があって帰郷した。いわゆるUターン住民の1人だった。私との会話で彼は、「殺された者の名前を聞いて、ああ、やっぱりな、やっぱりやられたか、と思ったよ、正直」と振り返った。

「俺みたいにあくまでも下手下手に出て、要はゴマすって生き続けるしかねーんだよ、こういうところでは。ここじゃあ、人間関係は上か下かしかねーんだから。『あなたがいなければ』、『あなたがいてこそ』って、声を掛けなきゃ。でも、そこまでやったって、向こうが挨拶を返してくるかどうかはわかんねえ。その時の向こうさん次第だ。でも、とにかく向こうが気づく前に、こっちからゴマすって、挨拶をしなけりゃダメなんだ。保見はそれができないから、嫌われたんだよ。ゲートボール場とかでも言われてたんだよ。いろいろ噂して。だから、殺された者を見てね、ああ、やっぱりな、と思ったわけよ」

 保見死刑囚は“妄想”に駆られて、見境なく無差別殺人を犯したかのようなイメージが流布している。だが実際の被害者は、冷静に“選別”されていたことが分かる。イジメに加担しなかった家は素通りされ、被害に遭っていない。

 私が保見死刑囚の自宅を管理するため、金峰を訪れていた時のことだ。あの般若心経の知人と再会すると、彼は「俺だって、犬2匹、殺られたからな……」。

 そして不穏な言葉も口にした。「俺もよ、いつ手縄がかかることになっちことをしかねないか、わかんねえからな。俺だって、明日は保見死刑囚と同じになっちまうかしれねえからな」

 18年、拘置所にいた保見死刑囚のもとに、彼がかつて住んでいた神奈川県川崎市に住む少年から1通の手紙が届いた。

 差し出し人は何と11歳。まだ小学生だった。授業で戦後の集団就職を学ぶ中で保見死刑囚の存在を知り、手紙を送ったのだった。保見死刑囚は「金の卵」ともてはやされた集団就職世代の1人だった。

《高度経済成長を支えて、今ある豊かさを創った保見さんのようなひとが、なぜ故郷に戻って悲しい想いをしなければならないのかわかりません》

 少年はそう保見死刑囚に問いかけた。保見死刑囚はこう返信した。

「私は、故郷を捨てた者とされてしまったということです。それに気づい時に、早く村を出るべきだった」

 夏休みを利用し、少年は広島の拘置所を訪れ、保見死刑囚と面会も果たした。11歳の少年に向かって、彼は次のような“助言”をしたという。

「(もしイジメに遭ったら)逃げろ。逃げるんだよ。それが勇気なんだよ。逃げることは恥ずかしいことじゃない。逃げる勇気が大事なんだよ。君はいい目をしている。立派に生きるんだよ」

 しかし、保見死刑囚は逃げなかった。そして今、彼は獄中にいる。家計を助けるために集団就職で都市圏に出た世代が、懐かしきふるさとに戻った時、「故郷を捨てた者」と見なされて、謀反者さながらに扱われてしまう。それに気づいた瞬間、保見死刑囚にとってふるさとは絶望の地となったのかもしれない。

山梨県で始まる「移住コンシェルジュ」

 地縁血縁がない土地に移り住む「Iターン」に対し、自身が生まれ育った場所や家族の故郷に戻る「Uターン」――移住には大きく2つの流れがある。

 自治体の移住振興策は、Iターンを対象にしたものであることが多い。トラブルも、Iターン移住者による地元文化への不理解や不慣れを原因とする指摘が多い。

 しかし移住ブームの蔭で、実は地域の機微に詳しいはずのUターン移住者が抱える、物心両面での苦悩も潜在化している。Uターン移住者は逆に、地元に縁が深いために遠慮と気後れが先にたち、悩みや不満が表沙汰になりにくいのだ。

 ただIターンであっても、Uターンあっても、定住後のケアが最重要課題であることは言うまでもない。保見死刑囚も両親の没後、東京や神奈川といった首都圏に戻ることを何度も考えた。だが、「やっぱり両親の墓を守れるのは自分しかない」という気持ちが、再度の移住をためらわせたという。

 Uターン移住者の精神状態が逼迫する大きな原因が、この躊躇だ。再び都会で生活する事を希望しながらも、実行には踏み切れない。結局、故郷での生活が続いてしまうというケースだ。

「田舎は特に、第1次ベビーブーム世代で“きょうだい”の数が多い。7人きょうだいや8人きょうだいも珍しくない。そして全員が、『実家や墓を放りっぱなしにするわけにはいかない』と考えている。でも、姉妹は全員が嫁ぎ、そちらの生活があるから故郷には帰れない。そうすると、男兄弟の中で独身という者が、Uターンするというのが最も多い」(山間地域に詳しい長野県警の警察官)

 Uターン移住者は長期間の定住を果たしていても、住み心地に満足しているわけではないことがある。その点は、行政も注意が必要だろう。保見死刑囚のように「やむなく」故郷に住んでいる者も多いのだ。表向きは地域に溶け込んでいるが、内心では大きなストレスを抱えている。そして長年の鬱屈が溜まり、心身症に陥るケースも少なくない。

 Uターン先の役所に勤務する職員にとっても、「移住後相談」は精神的負担の重い仕事だ。人間関係が濃密な田舎ほど、行政の指導や仲裁は難しい。

「私が小さい頃から面倒を見てくれたおじいさんに、『あなたの移住者に対する態度はイジメです。もう現代では通用しないんです』などと言おうものなら、私がつまはじきにされるだけでなく、妻や子供にもとばっちりが及びます」(山梨県内に住む、ある自治体の職員)

 保見死刑囚も事件前、警察署や市役所を訪れ、相談に乗ってもらえないかと何度も訴えていた。しかし、根本的な仲裁や解決策は得られなかったという。

 こうしたトラブルを、地元の人間が解決するのは無理だとも言える。トラブルの当事者から心理的にも物理的にも遠い場所に立ち、地域の人間関係から自由な第三者が相談や仲裁に乗るのが理想的だ。

 とはいえ、沖縄の地域トラブルを、東京の人間が解決するのも不可能だ。距離は必要だが、当該地域の事情や心理的な機微を知り抜いている者でなければ務まらない。近すぎず、遠すぎず、という距離の者が必要になる。

 山梨県では近く、こうした移住者の精神的ストレスを解決するため、県主導による「移住コンシェルジュ」制度の運用を開始する。

 市町村の移住トラブルに対し、県の相談員が仲裁に入るわけだ。地域固有の人間関係に束縛されることなく、しかし、県レベルの地域性を把握しながら、客観的な見地からアドバイスするのが目標だ。県がケアすることで、市町村より強いリーダーシップを発揮することも求められている。

取材・文/清泉亮(せいせん・とおる)
移住アドバイザー。著書に『誰も教えてくれない田舎暮らしの教科書』(東洋経済新報社)

週刊新潮WEB取材班

2019年7月25日掲載

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