ホルムズ海峡から考える「ポツダム・プロセス」と「憲法9条」

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 参議院選挙後に、ホルムズ海峡における民間船舶護衛の有志連合への参加が政策課題となりそうだ。日本は、中東からの石油への依存度が高く、最近もタンカー攻撃を受けた。アメリカの同盟国としての立場からも、日本が参加を見送るというオプションは、普通ではあり得ない。だが法改正が必要だとして、国会でもめるのだろうか。憲法問題だ、ということになってしまうのだろうか。

 私は24歳の時の1993年、国連PKO(平和維持活動)法に基づいた選挙要員としてカンボジアに派遣してもらい、UNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)で働いたことがある。その時にも、自分の仕事とは全く無関係な自衛隊の話ばかり日本のメディアにインタビューされ、辟易とした。2014年からの平和安全法制をめぐる憲法論議に触発され、私が最近になって憲法論の著作を公刊し始めたのも、四半世紀前からの記憶がよみがえってきたからだ。

 そのため最近は、憲法学者にささやかれたりする。「日本の憲法学者はマスメディアを後ろ盾に持っているから、批判しても勝ち目はないよ」と。

 なぜ日本のマスメディアは、一部の憲法学者の偏った憲法解釈に毒され続けているのか?

 巷ではこのように言われている。アメリカ人が憲法を起草したのだから、憲法を理由にして、アメリカ人の要請を断るのが便利だ。ドナルド・トランプ米大統領が日米安全保障条約のありかたに疑問を呈するのはお門違いだ。全てはアメリカ人の作った憲法のためなのだから、と。

 しかし、少なくとも憲法を起草したアメリカ人が原因であるというのは、間違いだろう。問題は、偏向した解釈を通説として主張し続ける一部の日本の憲法学者にあり、その解釈を金科玉条のように広め続けているマスメディアにある。

「ポツダム・プロセス」という考え方

 平和構築の世界では、和平プロセスの仕組みは、紛争終結時に締結される和平合意に書き込んでおくのが最も標準的な考え方である。カンボジアの1991年パリ和平協定、ボスニア・ヘルツェゴビナの1995年デイトン合意、南スーダン独立を導き出した2005年包括的和平合意(CPA)などが有名だろう。

 厳密には和平合意ではなくても、同じ機能を果たすものとして政治合意が結ばれる場合も多い。2001年の「ボン合意」は、アフガニスタンの国家建設の道筋を定めた。それは、日本も深く関わった「ボン・プロセス」の履行という、一連の平和構築活動の枠組みの基盤となった。

 実はこのような仕組みは、国家間紛争の場合でも同じように作られる。最近は国家間紛争が見られなくなり、事例が作られていないだけだ。30年戦争終結時の1648年ウェストファリア条約以降、戦争終結時の和平合意に、戦後秩序の基本的枠組みが書き込まれるというパターンができた。そのパターンは、その後、数百年にわたって踏襲され続けてきた。

 ちょうど今から100年前に締結された、アメリカのウッドロー・ウィルソン大統領が主導して作られた国際連盟規約を含むベルサイユ体制は、第1次世界大戦の後の包括的和平合意の作成を通じて成立したものであった。第2次世界大戦後は、サンフランシスコ講和条約に共産主義国家が参加しなかった点などで、変則的なパターンになっているようにも見える。しかし現代にまで続く国際社会の秩序は、すでに1945年国際連合憲章によって表現されており、やはり戦争の後の国際合意が基盤になっている。

 現在の国際社会における日本の立場は、1951年サンフランシスコ講和条約によって形作られ、同時に締結された日米安保条約を不可分一体の国際秩序原則として生み出されたものだ。

 だが、1945年から51年までの6年間は、いったい何だったのだろうか。戦後日本の国家としての仕組みの基本は、日本国憲法を含めて、この6年間で決定されている。だがこの6年間の占領統治時代には、和平合意によって成立した平和構築の枠組みは存在していなかったのだろうか?

 そんなことはない。実は太平洋戦争の終結は、ポツダム宣言という連合国側からの終戦にあたっての枠組みに関する「提案」を、日本側が「受諾」するというやり取りを契機にして起こった出来事である。その後の戦後政策は全て、ポツダム宣言で定められた方向性に沿って進められた。1945年9月以降の戦後日本の平和構築政策は、いわば「ポツダム・プロセス」と呼ぶべき枠組みに沿って実施されたものであった。

 占領統治下で作られた日本国憲法は無効だ、という「右」の改憲勢力の議論がある。これに対して「左」の護憲派は、「8月革命説」(実は日本国民が革命を起こして主権を握ったとする説)という荒唐無稽な理論を振りかざして対抗した。いずれも過度にロマン主義的な立場である。

 ポツダム宣言の受諾は、日本政府が公式な手続きを経て行ったことであり、遵守すべき国際合意である(1969年ウィーン条約法条約では、武力の威嚇による条約の無効が明記されたが、戦時に締結された条約が無効の主張なく自動的に効力を発しないわけではない。また太平洋戦争は日本が開始したものであるため、ポツダム宣言の履行確証は連合国側の自衛権の行使範囲だと言うことは奇異ではない)。

 そのポツダム宣言遵守の仕組みにそって、大日本帝国憲法を改正して、日本国憲法を制定した。その憲法の原案を起草したのがアメリカの国籍を持って日本国籍を持っていなかった者たちだったとしても、驚くには値しない。そもそもカンボジア、ボスニア、南スーダン、アフガニスタンといった事例を見れば、現在の国際社会においては、外国人の助言者が重要な役割を演じて、新しい憲法体制が作られることは、全く珍しいことではない。18世紀のフランス革命と同じやり方を踏襲するのでなければ憲法は成立しない、という思い込みは、全く根拠がなく、現代世界の実情にも合致していない、単なる偏見でしかない。

ポツダム宣言の論理構成

 そこでポツダム宣言が何を日本の戦後の国家再建の枠組みとしたのかを確認してみよう。

 未だに誤解されている場合が多いが、まずポツダム宣言受諾で「無条件降伏」したのは、日本という国家それ自体ではないことを見てみよう。「吾等ハ日本国政府カ直ニ全日本国軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ且右行動ニ於ケル同政府ノ誠意ニ付適当且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府ニ対シ要求ス右以外ノ日本国ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス」という規定を見れば一目瞭然であるように、「無条件降伏」したのは「全日本国軍隊」であり、日本国政府はそれを「保障」するに過ぎない。

 ここで降伏対象とされた大日本帝国軍は、連合軍から見て敵側の軍隊であっただけではない。不戦条約を破って戦争を開始し、国際人道法を破って戦争犯罪を繰り返した国際法違反組織だというのが、ポツダム宣言の認識である。

 そのため大日本帝国軍は、解体の対象とされ、「日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルヘシ」という規定が定められた。あわせて産業の維持にあたっては、「日本国ヲシテ戦争ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルカ如キ産業ハ此ノ限ニ在ラス」とされ、国際法違反組織である大日本帝国軍の復活の基盤も禁止されることとなった。

 注意すべき点だが、「完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルヘシ」と定められて解体・復活阻止の対象となった「日本国軍隊」は、あくまでも国際法違反行為を行い続けていた組織としての、1945年当時の大日本帝国軍のことである。一般的な言い方で、永久に日本国が軍を持つことが否定されたわけではない。この論理構成は、戦争指導者と日本人民との間の区別にも対応する。

 ポツダム宣言の基本姿勢は、「無責任ナル軍国主義カ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序カ生シ得サルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレサルヘカラス」という文章によって、表現されている。そのため「吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルヘシ日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ」とも定められた。

 戦争国家であった日本の改革は、戦争犯罪組織である大日本帝国軍の解体と、戦争犯罪者である戦争指導者の処罰を前提として進められる。その改革の主体となるのは、日本「国民(people)」だが、連合国は占領軍の形をとってその改革を推進し、保障する。

 こうした「ポツダム・プロセス」の見取図にしたがって、「前記諸目的カ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府カ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルヘシ」と定められた。

 日本国憲法の制定は、この「ポツダム・プロセス」の核心を構成する改革であった。そこで大日本帝国軍の解体と復活阻止を保障する国内法規定である9条も策定されることになった。

 したがって9条の目的は、日本を戦争国家から平和主義国家に作り替えることにあったのだが、それは国際法違反状態を正し、国際法を遵守する国家体制を確立することによって達成されるものであった。

「ポツダム・プロセス」履行措置としての憲法9条

 憲法案の起草を指示した際の「マッカーサー3原則」の中に、自衛権の放棄も意図する文言があったことは有名だ。しかし実際に憲法案の起草にあたった者たちによって、自衛権放棄の文章は削除された。そのことはダグラス・マッカーサーにも報告されて認められている。

 現在の憲法9条1項は、1928年不戦条約と1945年国連憲章2条4項(武力行使の一般的禁止)の「コピペ」と言っていい文言になっているが、「国権の発動たる戦争(war as a sovereign right of the nation)」及び「国際紛争を解決する手段として」の「武力による威嚇又は武力の行使」といった国際条約にそった表現は、自衛権の留保がなされていることの証左でもある。

 マッカーサーは、「第9条は、国家の安全を維持するため、あらゆる必要な措置をとることをさまたげていない。……第9条は、ただまったく日本の侵略行為の除去だけを目指している。私は、憲法採択の際、そのことを言明した」と言い続けた。

 護憲派は、そこに「3原則」からのマッカーサーの豹変を見出そうとするのだが、的外れだ。「3原則」は、あくまでも起草作業の開始を指示した際の組織内メモに過ぎないのだから、その内容を即座に修正していたとして、その責任をとる必要は全くない。

 9条1項の文言が国際法に沿って自衛権の留保があることが明確になったことにあわせて、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の憲法草案起草グループは、9条2項に「戦力(war potential)」という語を挿入した。単に「陸海空軍」を保持しないのではなく、「戦力」としての「陸海空軍」だけを保持しないことが明確になったのだ。ここで2項の「戦力(war potential)」の「war」が、1項で放棄された「国権の発動たる戦争」を受けていることは自明である。したがって2項で不保持が宣言されているのは、国際法違反行為である「戦争」の遂行を目的とする「戦争潜在力」である。言うまでもなく、自衛隊はこのような「戦争潜在力」に該当しない。

 ちなみに9条2項には、「交戦権」の否認も定められているが、「交戦権」は国際法に存在している概念ではない。否認しても何も法的効果が発生しない。憲法典も、「認めない」と言っているだけなので、存在していないことをよく知っている文言になっている。

 なぜ存在していないものをあえて否認する条項を入れたのかと言えば、それは大日本帝国軍の慣行の復活を阻止するという「ポツダム・プロセス」の枠組みがあったためだろう。日本でも、太平洋戦争前に「交戦権」についてふれた国際法の著作は見つからない。ただ太平洋戦争勃発後の1940年代前半の著作には、わずかに確認できる。重要なのは、影響力のあった信夫淳平(国際法学者)の著作だろう。

 信夫は1943年の著作で、「国家は独立主権国として、他の国家と交戦するの権利を有する。之を国家の交戦権と称する」と述べたうえで、「開戦」の方式は、「当該国家の交戦権の適法の発動に由るを要すること論を俟たない。その権能の本源如何は国内憲法上の問題に係り、国際法の管轄以外に属する」などと説明していた(信夫淳平『戦時国際法提要 上巻』照林堂書店、1943年、100、192頁)。

 国際法上存在しない「交戦権」を正当化するにあたって、「国内憲法」つまり大日本帝国憲法の「統帥権」のような概念に根拠を求めるといった倒錯を、国際法学者の信夫は犯していた。もっとも「帝國ハ今ヤ自存自衞ノ爲蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破碎スルノ外ナキナリ」という理由で開戦を正当化した1941年「米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書」の後の時代では、信夫のような説明を施すしかなかったということなのだろう。

 マッカーサーはその頃、自分のかつての直属の部下たちが「バターン死の行進」で捕虜になった後に次々と倒れていたことに怒りを募らせ、フィリピン奪還計画を練っていた。諜報活動に優れていた米軍が、戦時国際法の新しい権威となっていた信夫の著作内容に関心を持たなかったことは考えにくい。マッカーサーが「交戦権(The right of belligerency of the state)」の否認を憲法に挿入したいと考えたのは、少なくとも太平洋戦争の経緯をふまえてのことであっただろう。

 9条は全体として、「ポツダム・プロセス」の一表現として理解するのが、最も正しい。戦前の日本の侵略行為を反省し、大日本帝国軍を解体し、その復活を阻止するための規定だが、現代国際法にそって自衛権を行使する組織を否定する含意は、全くない。

 9条を理由にして、国際法の適用を拒絶することは、全くの倒錯である。日米安全保障条約を否定することもまた、倒錯と言わざるを得ないのである。

 トランプ大統領から逃げ回る言い訳に憲法を持ち出すのは、もうやめたほうがいい。アメリカ人が作った憲法なのだから仕方がないのだ、といった責任逃れをするのは、もうやめよう。憲法学者の奇妙な憲法解釈がないとアメリカ人と真正面から対峙しなければいけなくなる、といった姑息な発想で、日本の一部の憲法学者の存在価値を認め続けようとするのは、もうやめよう。

篠田英朗
東京外国語大学大学院総合国際学研究院教授。1968年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大学大学院政治学研究科修士課程、ロンドン大学(LSE)国際関係学部博士課程修了。国際関係学博士(Ph.D.)。国際政治学、平和構築論が専門。学生時代より難民救援活動に従事し、クルド難民(イラン)、ソマリア難民(ジブチ)への緊急援助のための短期ボランティアとして派遣された経験を持つ。日本政府から派遣されて、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)で投票所責任者として勤務。ロンドン大学およびキール大学非常勤講師、広島大学平和科学研究センター助手、助教授、准教授を経て、2013年から現職。2007年より外務省委託「平和構築人材育成事業」/「平和構築・開発におけるグローバル人材育成事業」を、実施団体責任者として指揮。著書に『平和構築と法の支配』(創文社、大佛次郎論壇賞受賞)、『「国家主権」という思想』(勁草書房、サントリー学芸賞受賞)、『集団的自衛権の思想史―憲法九条と日米安保』(風行社、読売・吉野作造賞受賞)、『平和構築入門』、『ほんとうの憲法』(いずれもちくま新書)など多数。

Foresight 2019年7月23日掲載

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