「アントニオ猪木を監禁!?」伝説の漫画原作者、梶原一騎が初々しかった頃

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 チケット当選が発表されるなど、東京オリンピックへの関心は何だかんだ言って高まってきており、新採用された空手にも日本人金メダリストが生まれるかも、と注目されている。

 オリンピック種目に決まった空手は伝統派空手というもので、伝統的な型を重視し、相手に当てないノンコンタクト(寸止め空手)で試合を決する。それとは別に、直接打撃を行うのがフルコン(フルコンタクト)空手である。

 残念ながらオリンピックに採用されなかったフルコン空手も、格闘技や武道ファンからは人気のある競技だ。その人気の礎を作った漫画が、1970年代に大ヒットした『空手バカ一代』(『少年マガジン』連載)だった。極真会館を創設した大山倍達氏とその高弟たちの活躍を描いた漫画だ。大山氏は、直接打撃制という「ケンカ空手」をうたい、次々と異種格闘の難敵を倒していく。これが強さを求める青少年たちの心を捉えることになる。

 この『空手バカ一代』の原作者が梶原一騎氏だった。格闘技漫画では『柔道一直線』『タイガーマスク』『あしたのジョー』と次々とヒットを飛ばし、他にも『巨人の星』『侍ジャイアンツ』や『愛と誠』などなど。60年~70年代に青春を送った世代に、「梶原一騎」の名前は欠かせない。その作風は、血のにじむような努力や苦労した末、一瞬の成功をつかむも、最後には死か再起不能という破滅的な結末を迎えるというものが多かった。

 作風のみならず、梶原氏その人もまた無頼で破滅的な人間だった。自らの人生も、ケンカ、女、酒を欠かさず、漫画の原作だけではなく、映画会社の経営にも参加。原作ドラマのヒロインを演じた女優の他、何人もの芸能人と浮名を流した。しかし、晩年には、編集者への傷害事件、アントニオ猪木監禁事件(後に監禁されたのは猪木氏の右腕、新間氏だったといわれる)、クラブホステスへの暴行未遂など、過去に隠されていたものが次々と明るみに出た。

 昭和を代表する漫画原作者であり、子供たちの心をつかむ一方で、業界においては強面で鳴らした梶原一騎氏。そんな毀誉褒貶が絶えない彼にも、当然、初々しいデビュー時代があった。今では語られることもない梶原氏のデビュー当時のことを、ノンフィクション作家の本橋信宏氏が新著『ベストセラー伝説』で明かしている(引用はすべて同書より)。

 昭和30年代、少年たちに人気を博した雑誌『少年画報』が懸賞小説を募集した。これに入賞したのが「勝利のかげに」というボクシング小説。17歳の頃の梶原氏の手によるものだった。

 デビューを果たした梶原氏は同誌に読み物を書くようになる。まだ漫画の原作ではなく、“絵物語”といって、挿絵が多くはいった少年向けの小説を書いていた。『少年画報』の最後の編集長をつとめた菊地喜格氏が、駆け出し時代の梶原氏のことをこう語る。

「『チャンピオン』というボクシング小説を書いていて、田園風景が広がる蒲田の自宅まで原稿をとりにいった。小さな部屋の小さな机で書いていました。僕がまだ23、24歳ですよ。梶原さんが『先生、これでいいですか?』って聞いてくるんです。そう、梶原さんが(笑)。作品は面白いから、ああいいですよと言って原稿をもらってくる。『帰りにいい店があるから、ごちそうします』と言って、下駄履きで蒲田の駅まで歩いて行き、やきとり屋でごちそうになりました」

 後年の梶原氏からは想像もできないような、しおらしい青年の姿がそこにはあった。

 少年画報社の戸田利吉郎社長も、梶原氏の連載を担当したことがある。

「梶原(一騎)さんの原作で『ジャイアント台風』(1968年)を担当しました。絵は辻なおきさん。もともと5回で連載は終わるはずだったんです。そのころキングでも連載していた『怪物くん』がテレビでもやっていたこともあって人気がダントツの1番だったんですが、『ジャイアント台風』が連載2回目から抜いたんで、長期連載することになりました。辻さん、描くのが遅いんで週に5日も泊まり込んで見張ってました」

『ジャイアント台風』は当時人気があったプロレスラー、ジャイアント馬場を主人公をした物語で、実在の人物を扱っているという点では後の『空手バカ一代』にも通じる。辻氏とのコンビは、同時期に『ぼくら』(講談社)で『タイガーマスク』を連載している。

 この年には同じく『少年マガジン』で高森朝雄の別ペンネームをつかって『あしたのジョー』の連載も開始。別ネームを使ったのは同誌で『巨人の星』の連載が続いていたからだ。まさに質と量を両立させた天才梶原一騎の全盛期だった。

 戸田社長も、この頃の梶原氏の意外な一面を語ってくれる。有力な原作者は漫画家の選定からセリフまでうるさくチェックするのに比べ、梶原氏の場合は――。

「梶原さんは漫画家の選定に関して文句を言わなかったからね。自分と組む漫画家はどんな漫画家でもいい。俺が面白い話を作るから、新人でもいいんだって」

 猛烈な忙しさのため、劇画界の首領も混乱し、『柔道一直線』(『少年キング』1967年)の原作原稿を担当者が読んでみると、話に関係の無いクラブのママが登場して、綿々とママの思いが綴られていたこともあったという。

 この後も『空手バカ一代』(71年)、『侍ジャイアンツ』(71年)、『愛と誠』(73年)とヒットを飛ばし、梶原氏の快進撃は続いていく。75年には「三協映画」を設立、極真空手のドキュメント『地上最強のカラテ』を製作して、興業的にも成功。ただ、この頃から漫画の原作者としては、以前のほどのクオリティのある作品は生み出せなくなっている。

 83年には暴力事件が明るみに出て、連載作品はすべて打ち切り、単行本は絶版と、暗い話題が続く。同年には壊死性劇症膵臓炎と診断され、奇跡的に復活するも、87年年明けに体調不良で入院、50歳という若さで亡くなった。

 一時は義兄弟の契りを結んだほどの梶原一騎氏と大山倍達氏であったが、『地上最強のカラテ』の収益の分配をめぐって信頼関係が崩れて行く。亡くなった頃には義兄弟の関係は途絶え、葬儀には大山氏の姿もなかった。

デイリー新潮編集部

2019年7月18日掲載

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