「石原裕次郎」三十三回忌 名脚本家が振り返る、兄弟分「勝新太郎」との絆

エンタメ 芸能

  • ブックマーク

Advertisement

勝新太郎の弔辞

 1987年8月11日に東京・青山葬儀所で行われた裕次郎さんの本葬で、勝さんは友人代表として弔辞を読むことになった。しかし、憔悴しきっており、しどろもどろの部分も。のちのコカイン騒動(1990年)や自らのがん告白会見(1996年)では終始悠然とし、人を食う発言を繰り返したのに。まるで恋人を失った若者のようだった。

 以下、一部を再録する。

「今日、この弔辞を読めと言われたときに,いいのかなぁ…、俺なんかが弔辞を読んでいいのかなあ…。昨日、『さよなら裕次郎』という本とそれからお兄さんの石原慎太郎氏の書いた文章と読んでいるうちに、とうとう朝になっちゃって…

              (略)

 なんかしゃべることを見つけなくちゃいけない、見つけなくちゃいけないと思って、どうしてもその言葉が出てこない、そうしたら、『兄弟、なんだよお前好きに言えよ、好きなことを言やいいんだよ、来て』。そういう声が聞こえたんで…。ここへ来たら、本当に生きてる時も思いやりがあったけども、死んで肉体がなくなっても、この魂が…この写真の顔が大変楽にさせてくれて…。

              (略)

 役者としては俺のほうが勝ってたんじゃないかな、なんて思いながら、この間、『陽のあたる坂道』とか、いろんなものを見てるうちに、とても追っつかないなと、これは。これは俺たちみたいな、変な演技するとか、そんなもう…そういうもんじゃ、とてもこれはかなわないと。石原裕次郎っていうのは、もう凄いんだと、つくづく思った。生きていながら死んでるやつが多い世の中で、死んで、また生き返っちゃったという、この凄さ、これは、とっても凄い」

 この「兄」の言葉が、「弟」の本質を言い表していたのではないか。

 勝さんはこの10年後の1997年6月、下咽頭がんで逝った。

高堀冬彦/ライター、エディター
1990年、スポーツニッポン新聞社入社。芸能面などを取材・執筆(放送担当)。2010年退社。週刊誌契約記者を経て2016年、毎日新聞出版社入社。「サンデー毎日」記者、編集次長。2019年4月退社、独立。

週刊新潮WEB取材班編集

2019年7月17日掲載

前へ 1 2 次へ

[2/2ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。