【魂となり逢える日まで】シリーズ「東日本大震災」遺族の終わらぬ旅(3)

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 東日本大震災の大津波が石巻市を襲った2011年3月11日から2週間後。小学校を卒業間近だった三男秀和さん=当時(12)=を亡くした鈴木由美子さん(50)と家族に、枕経で訪れた西光寺副住職、樋口伸生さん(56)は、「死んだ後、また逢える」と伝えた。

「秀(秀和さんの愛称)を1人で逝かせてしまった。もう何もしてあげられない。生きる意味はなくなり、死ぬことしか考えられなかった」

 由美子さんはその時を振り返る。心は暗い死の世界との境をさまよっていた。

「いま見えているものが妄想か、夢の中にいるのか、別の世界にいるのか分からず、自分の身に何が起きたのか、なぜ自分が存在しているかさえあやふやになった」

「ただ呼吸をしているだけ。3月11日のあの時を思っては自分を責め、私自身が生まれてきたことに嫌気がさした」

 そんな由美子さんと、津波の渦中で弟の手が離れてしまったことに苦しむ次男に、樋口さんの伝えた言葉が「精いっぱい生きた後に、また逢える」だった。さらに続けたのは、「秀和くんはこれから、皆の『善知識』になる」「私たちが良い人間になるよう導いてくれるのが、秀和くんの仕事になる」。

「善知識」とは仏教の言葉で、人を正しい道に導いてくれる師のこと。由美子さんにとっては思いもしない言葉だった。

「もう生きるのがいやで、どうしたら秀を取り戻せるか、取り戻せないなら私がそばに行くしかない、とばかり思っていた」「でも、いつか逢えることを信じて生き、再会した時には『母ちゃんの息子でよかった』と言ってもらえるならば、それが秀にとってもいいことならば、秀を困らせるような生き方、死に方はできないのだと分かった」

「息子のためにもう何もしてあげられない」という悔恨が、「秀のためにまだやれることがあるかもしれない」という小さな希望に変わった瞬間だったという。

秀和の母でいたい

 秀和さんが生まれて間もない1999年3月に由美子さんは離婚をした。市内の飲食店で働きながら3人の息子を育て、「この世で何よりも大事な家族になった」。

 父親は地元の人で、石巻漁港に近い同市明神町に実家のあった義理の父母は離婚後も孫たちに会いに来たり、遊びに連れていってくれたり、かわいがってくれた。だが、2人とも津波の犠牲になった。大きくなっていた長男は将来への不安から、気持ちが不安定になった時期もあったという。

 由美子さんは夜勤の仕事に出かける前や台所にいる時など、どんなに短い時間でも子どもたちと向き合い、小さな変化のサインも見逃さないよう努めた。子育てについての講演会にも出かけて勉強した。

「秀はお兄ちゃんたちのまねをして笑わせ、それから野球の練習の話、友だちとその日何をしたかも一生懸命話してくれた」

 子どもを育てる責任は「20歳になるまで」と心に決めており、震災前、「(末っ子の)秀が20歳になる時、私は50歳だよ」と話すと、秀和さんは「お母さん、あと8年頑張るんだね」と笑った。

 秀和さんの葬儀は5月下旬だった。心が優しく明るい秀和さんには友だちが多かった。幼稚園、小学校低学年のころから、皆が遊びたがって寄ってくるような人で、内気で一人ぼっちの子にも声を掛けて笑わせ、遊びの輪に入れてくれたそうだ。

「まだ気持ちの中では、お葬式なんて受け入れられなかった。仲の良かった子どもたちと秀を会わせてあげよう、と思ったから」

 津波で被災し2階だけが使えた葬祭場に、小学校のスポ少チームのユニフォーム姿の仲間や同級生らが集う「お別れ会」だった。

「告知もしていなかったのに大勢参列してくれて、葬祭場の人もびっくりしていた」

 と由美子さんは回想する。

 西光寺の隣、市の震災遺構として保存が決まった門脇小学校の裏手に、秀和くんが眠る墓がある。墓碑銘に「球琳秀和童子」と刻まれ、門に当たる両側の親柱には丸く磨かれた石の野球ボールが載り、「友」の文字がある。目標にしていた次男がプレーした中学生チーム「石巻リトルシニア」は、次男がつけた背番号と同じ「8」のユニフォームを贈り、チームメートとして、入団が決まっていた秀和さんの写真を試合のベンチに置いてくれた。お墓を建てた際に、今は石川県にいる元級友が一生懸命にためた「500円貯金」を送ってよこした。不登校をして悩んでいた時に秀和さんが家に迎えにきてくれ、学校に戻れるよう助けてくれたという。

「無駄な経験はないよ。一生懸命に努力したことが、結果に実らなくても、その経験を自分のものにするかしないか、自分次第なんだよ」

 そんな母親の言葉を信じて、秀和さんは野球に打ち込んできたという。そして、たくさんの友だちをつくり、助け、「善知識」そのもののように生きた。

「私自身の言葉が跳ね返ってきた。『いまの自分には、子どもを亡くす経験なんて、しなくてもいい経験だった。そんな経験、したくなかった』――。そう絶望したことが、私を信じてくれた秀に申し訳なくなった。それをウソの言葉にしたくない。逢える日まで、秀に恥ずかしくない、秀のお母さんらしく頑張る母でいたいと思った」

「つむぎの会」

「津波で子どもを亡くしたお母さんがいる」という話が伝わってか、家族と共に身を寄せた市内の実家にある日、市から派遣された精神科医と保健師が安否確認に来た。中部地方から応援に派遣された医師だった。

「若い女性の保健師は私の前で泣いたけれど、問診は『食べられますか』『寝ていますか』『痛いところはありますか』とか、5問ほどで終わって帰った。『食べても吐く』と答えても、なぜかと聞かれない」

「何を知りたかったのか、と怒りが湧いた。まわりの人は絶対に分からない、誰も分かってくれないと悟った」

 自分が孤立していること、何気ない言葉や出来事で傷つけられていることを、由美子さんはあらためて感じた。

 当時、被災地でうわさの出た幽霊話を、東京のテレビなどが霊能者まで登場させて話題にしていたことに、「人の死、家族の死を何だと思っている」と怒りを覚えた。

「避難所にいたころは、知り合いの名が新聞の死亡者欄に載り、『あの人も亡くなったんだって?』と話す毎日だった。子どもを亡くした(同じ境遇の)お母さんと話をして、かろうじて支えられていた」

 震災後、少しずつ落ち着いてきた日常で、生と死の間で引き裂かれるような当事者の痛みを、まわりの人や家族にさえ話せなくなっていた。

「つむぎの会」という集いが石巻で開かれることを、6月末、地元紙の『河北新報』で知った。震災で子どもを亡くした親のために前月から仙台で始まった分かち合い、語り合いの会で、同市で活動する自死遺族グループ「藍の会」代表の田中幸子さん(70)が世話人だった。記事にあった電話番号をすぐに鳴らした。

「こちらが大変な状況にあると分かって、『誰もあなたを傷つけないよ。外部の人は入れず当事者だけだから、必ずおいで』と安心させてくれた」

「つむぎの会」が市役所の会議室を会場に催されたのは7月31日。石巻から6人、仙台から3人の参加者があった。「部屋に入った時の空気がとても楽だった」という。さまざまな年齢の、同じ津波で子どもを亡くした親たちがそれぞれの境遇、胸の内を涙とともに訥々と、あるいは絞り出すように語っていく。由美子さんも「どうぞ話してください」と優しく導かれた。被災から家族の暮らしを立て直そうとしているさなか、わが子の死をいまだ受け入れられず、その悲しみ、苦しさを誰にも打ち明けることもできなかった――と、初めて知り合う当事者たちは思いを絞り出した。

「傷つけられる不安はなかった。秀和の母親でいられる場所ができた」

 と由美子さんは振り返る。毎月第4日曜を定例に始まった集いで、それからの人生を一緒に歩める「戦友」たちとの出会いも生まれた。

分かち合う場

「みんな、立派な息子さんですね、と言ってくれる。ほめられて、私は泣くに泣けないんです。それよりも、生きていてほしかった。悲しいんですよ。田中さんの上の息子さんも警察官で、亡くなられたんですよね。この気持ちを分かっていただけると思って電話しました」

 藍の会代表の田中さんが津波の被災地で「つむぎの会」を開いたきっかけは、自死遺族のために設けた相談電話に5月初め、夜中に残されたこんな女性からの留守電だった。警察官だった長男が津波で殉職したという。まわりに聞こえないよう気遣っているように、低い、途切れ途切れの声だったという。

 田中さんの長男健一さんは、2005年11月に34歳で自死していた。同年5月22日早朝、学校行事で宮城県多賀城市の国道の横断歩道を渡っていた高校1年生の列にRV車が突っ込み、3人が死亡、15人が重軽傷を負った。地元署の交通係長として事故処理を担当した健一さんは、半年近くも激務に追われ、体調を崩して休暇中に命を絶った。仕事や人間関係の疲れを打ち明けられたのは死の直前。「なぜ、死なねばならなかったのか?」。職場の上司や通院先の医師らに問うて歩いた母親には、納得できる言葉が1つもなかった。

 息子の苦しみに気づかなかったことが罪に思えて自分を責め、「食べること、眠ることもできず、気が狂いそうで死にたかった」。

 田中さんは当時の取材に語った。救いを求める相手、話を聴いてもらえる場も地元になく、県知事に直訴の手紙を書くなどの模索の末、出会ったのが隣県の当事者たち。

「同じ悲しみに生きる人と初めて胸の内を話し、少しずつ楽になれた」

 遺族が分かち合う場を自らつくろうと2006年、「藍の会」を結成した。

 田中さんに留守電のメッセージを入れたのは、石巻市の青木恭子さん(60)。やはり3月11日に長男謙治さんを亡くしていた。同市の北部を所管する河北署の交通課に勤め、結婚して間もなく3年目を迎えるという31歳の警察官だった。避難を急ぐ車が混んだ北上川下流の堤防上の道路で、交通整理中に津波にのまれた。青木さんは後の取材にこう語った。

「警察官らしく行動した息子さんは誇りだね、偉かったね、とも人から言われた。でも息子がこの世にいない事実は変わらず、悲しさしかなかった。『ひきょう者』と言われてもいいから、無事に逃げて、帰ってきてほしかった」

「周囲で笑っていられる人を見ると、不思議で仕方がなかった。私は眠ることもできず、朝起きても悲しく、耐え切れず、必死で救いの場を探した。相談電話を見つけてダイヤルすると、『同じ警察官の息子さんを亡くされた方が、分かち合いの会を開いています』と、田中さんを紹介されたのです」

 田中さんも、青木さんからの夜中の留守電を聞いて衝撃を受けた。

「いままで、泣ける場所がどこにもなかったのだろう。子どもを亡くした親にとって、小さい子も大きくなった子も悲しみは同じ。私は自死遺族の活動で頭がいっぱいだったけれど、この電話があったから、この人のために新しい分かち合いの場をつくらなくては、と思った」 

クリスマスがつらい

 青木さんは、由美子さんらと出会った1回目のつむぎの会で、自己紹介を始めた時から涙を流した。

「小さなお子さんを亡くした人の話を聴いて、自分はいいのだろうかと思ったけれど、『年齢じゃない。同じ子どもだから』と言ってもらえた。そうだ、警察官じゃない、子どもなんだ。誰よりも大事な私の子どもなんだ、と思い、それまで胸にしまっていたものを語ることができた。人の言葉で傷ついたり、口に出すのを恐れたりせず、どれだけの痛みに苦しんでいるのか、みんなが分かり合える場だったから。『いつまでも立ち止まっていると、息子さんが悲しむよ』なんて、もう2度と言われることもないから」

「蓮の会」。

 つむぎの会でつながった由美子さん、青木さんらが2012年2月に西光寺で始めた集いだ。子どもだけでなく、親、きょうだいら大事な人を失った遺族にも扉を広げ、津波犠牲者の月命日である11日に毎月自主運営する祈りと講話、語り合いの場だ。相談された樋口副住職が、「供養する心をお伝えすることが、自分にできる唯一の手助け」と快く協力してくれた。

 2011年暮れのクリスマスイブの折、「わが子との思い出だらけのクリスマスに、テレビや街でジングルベルが流れるのを聞くのも、近所の子どもたちのクリスマス会の話を耳にするのもつらい」と、由美子さんら遺族が西光寺で講話を聴き、おしゃべりをして一緒に時を過ごしたことがきっかけだ。由美子さんは後にこう語った。

「子どもを亡くした母親である今の私だからできることを考えた。供養をして祈りの生活をしようと思うけれど、悲しみが押し寄せてきて、仏壇の前に長くいることができない。同じ思いを仲間の遺族からも聞き、1人でいるとたまらなく苦しい月命日に、大切な人を亡くした人たちとお念仏を唱え、必ず再会できますようにとお祈りする。抱えきれない悲しみを、みんなでつながって分かち合い、支え合って生きていける場をつくりたかった」

 筆者が訪ねた2012年9月11日の蓮の会。本堂の須弥壇の前に5人の母親が並んで座っていた。そばに樋口さんのほか、墨衣の7人の若いお坊さんがおり、北海道や東京、兵庫、宮崎の浄土宗の寺から震災後1年半の月命日供養のために駆け付けたという青年会有志だった。

 いすの下に置かれた小さな木魚を皆でたたきながら「南無阿弥陀仏」を終わりなく唱え、大地震が起きた午後2時46分まで、時が止まったとも永遠とも、この世とあの世の境にいるとも、現身であるとも魂魄になったかとも、居合わせた筆者には思えた。

「謙治のために木魚をたたいている自分がそこにいることさえ、理解できないでいた。なんで息子が死ななくてはならなかったのか、受け入れられないままだった」

 青木さんはその刹那を、こう思い返す。(この項つづく)

寺島英弥
ローカルジャーナリスト、尚絅学院大客員教授。1957年福島県相馬市生れ。早稲田大学法学部卒。『河北新報』で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)などの連載に携わり、東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』『福島第1原発事故7年 避難指示解除後を生きる』(同)。3.11以降、被災地で「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を書き続けた。ホームページ「人と人をつなぐラボ」http://terashimahideya.com/

Foresight 2019年6月8日掲載

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