【魂となり会える日まで】シリーズ「東日本大震災」遺族の終わらぬ旅(2)

国内 社会 Foresight 2019年6月1日掲載

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「お母さんが、すぐにも死にそうなんです」「目を離したら何をするか分からなくて」――。

 東日本大震災の大津波が宮城県石巻市を襲った2011年3月11日から2週間後。檀家の犠牲者の枕経に追われていた西光寺(同市門脇町)の副住職、樋口伸生さん(56)は、次の遺族宅で出迎えてくれた息子さんからこう訴えられた。津波を免れた日和山(海抜56メートル)にある住宅地の一角。顔なじみの檀家の両親と、被災して実家に身を寄せる娘たちの家族が待っていた。

母の心に届いた言葉

 火葬を終えたお骨箱が見え、亡くなったのは小学6年の鈴木秀和さん(12)だった。憔悴しきった顔で母親の由美子さん(50)が、心配する長男=当時(19)=と次男=同(15)=に寄り添われるように座していた。

「それまでの記憶が飛んでいた」と話す由美子さんと、樋口さんの回想から、その時の出来事を再現する。

 樋口さんは実家の両親とはなじみだが、長女の由美子さんと話すのは初めてだったという。

 その様子に「いったい、どうなってるんだ」と息子たちに問い掛けながら、お骨箱の前に一家を集わせた。津波の犠牲者の遺族を巡っての枕経を、樋口さんは死者と生者のどちらの心にも届くようにと平易な言葉で語りかけていた。

「あなた方が寿命をもって亡くなった時、秀和君が待っていてくれる。あなた方が阿弥陀様に祈り続けていてくれるなら、ちゃんと逢える。そういうお勤めをさせてもらいます」

 すると、由美子さんがはっとしたように、初めて顔を上げた。

先立たば 送るる人を待ちやせん 花のうてなの なかば残して

 私が先に死んだなら、送ってくれた人を待っていましょう。浄土の蓮台(仏の座)を半分空けておきます――。そんな大意だろうか。御詠歌にもなって親しまれてきた古歌である。樋口さんはこの歌を含めたメッセージを由美子さんらに語ったという。

 浄土宗の祖、法然には、

露の身は ここかしこにて 消えぬとも 心は同じ 花のうてなぞ

 という名歌がある。75歳で流罪になった時、今生の別れを惜しむ親しき人への返歌といい、ここにも、「極楽浄土の花のうてなで再会できる」という宗教的信念がある。

「宗門の教えを、自分なりの言葉で伝えた」と語る樋口さんの「また逢える」とのメッセージが、茫然自失だった母親の心にスッと入ってきた。

「いま、秀(秀和さんの愛称)はどうしているの? 寒くないの? 苦しくないの?」と泣きながら聞いた気がする、と由美子さんは思い返す。

「もう、大丈夫だから」と返事があったようで、それから「また逢える」の言葉が聞こえた。

「もう生きる意味があるのだろうか。私の存在って何なのだろう……。どんな景色を見ても色が消えていた。ただただ、死にたかった」

 そんな虚無の心象風景に再び色がよみがえり、「プリントにもしてくれた『送るる人を待ちやせん』の文字が、泣けて読めなかった」

大地震でパニックに

 西光寺から東に約2キロ。石巻工業港と臨港道路を挟んで接する同市三ツ股地区。北に商店街が連なる大街道(国道398号沿い)があり、震災前は多くの工場や会社事務所、住宅やアパートが立ち並んでいた。市の調べで津波の犠牲者は100人を超え、西光寺のある門脇町などとともに、街の被災状況が最も激しかった地区だ。

 2016年10月に6棟、約200戸の災害公営住宅が開設されたが、いまだ住宅が再建されぬままの風景も広がる。

 2011年3月11日午後2時46分に起きた大地震は、由美子さんが家族と暮らした三ツ股のアパートをめちゃめちゃにしていた。

「家具類が倒れて部屋を塞ぎ、飛び出した収納品や壊れた食器が散乱した。必死で身を守ったが、頭が真っ白になって震えた。何よりも子どもたちが心配だった」

 地震から津波襲来まで45分ほどの時間差があり、十分に避難できたのでは―と後になって言う人もいたが、その渦中ではほとんど不可能だったという。

「長男は専門学校、次男は中学校でそれぞれ卒業式の当日で外出していた。そのうち心配して戻ってきた次男に、小学校まで秀和を迎えに行ってもらった。地震から短時間のうちに次々と津波警報が伝わり、『10メートル』と聞いた時は『どういうこと?』と頭が真っ白になった」

 アパートの隣人たちは一斉に避難しようと飛び出し、「逃げるの、逃げないの?」と困惑して問い掛けてくる人もおり、ほとんどパニックの状態になっていたという。

 秀和さんの小学校には多くの子どもの保護者が訪れて引き渡しを受けたといい、その帰宅を待って家族は合流した。由美子さんは近所に住んでいた妹さんの車に同乗し、後には次男と秀和さんを乗せた知人の車、長男の車が続いた。

「避難所になっている中学校に集まろう」と申し合わせ、普段なら5分ほどの大街道への道を急いだが、平地で逃げ場がない地域ゆえに車が殺到して大渋滞に。全く動かない車列の後ろから津波が押し寄せてきた。

「街がのみこまれていくのが見えた。津波に追われながらどこをどう走ったのか。大街道の先にある運河を越えた時、子どもらが乗った後続車は見えず、後ろの街は津波にのまれていた」

避難中はぐれた家族                   

 たどり着いた中学校の避難所に子どもたちの姿はなかった。

 すぐに捜しに戻った先の運河にはごうごうと海水が流れ込み、見なれた街の景色はなくなっており、がれきとともに流されてきたコンビニの壊れた看板が足元にあった。

「子どもたちの車は向こう岸のどこかにあるのか」と由美子さんは泣き崩れて、その後は途切れ途切れにしか記憶がないという。

 避難所から何度も出ては捜し、夜中まで冷たい水に阻まれながら歩いた。

 それから3日目の朝になって長男が、昼ごろには次男が、顔も体も傷だらけになりながら避難所にたどり着いた。

「乗っていた車が独楽のようにくるくると回った」と、由美子さんは次男から聞かされた。避難する車列が渋滞した三ツ股から大街道への道筋を、津波はものすごい速さで襲っていき、「同級生の〇〇くんの家が、こちらでは〇〇ちゃんの家が、次々と崩れていくのが窓から見えた」。

 黒い激流に自分たちの車も巻き込まれ、ふわりと浮かされたと思うと、ばらばらになった家々の木材が助手席側にぶつかった。その衝撃で車は制御を失って回転し、窓ガラスが割れて海水が流れ込み、後ろの席の窓ガラスも壊れて、次男と秀和さんは水の勢いで車外に押し出された。

 足が届かない海中のような深さの津波にのまれ、それまでしっかりとつないでいた兄弟の手が離れたという。秀和さんの「怖い」という最後の言葉を聞いたと、由美子さんは伝えられた。

 次男は水面に浮きあがり、目の前にあった民家の雨どいを必死につかんだという。家の人々が2階にいて「入れ、入れ」と助けてくれ、そこで2日間、世話になったそうだ。

 三ツ股の東隣の築山という地区だった。車もすぐ近くに流れ着いていた。津波の水が引いたのを確かめ、中学校の避難所まで自力でたどり着いた。運転してくれた知人は車もろとも流されたが、幸いにも無事に生還した。

 はぐれていた間、由美子さんは息子らに懸命に携帯メールを送り続け、唯一返信を寄せたのが1人で後続車に乗った長男だった。

 11日の午後7時ごろ突然、「どこかの家の2階の屋根にいる」とメールにあり、「大丈夫なの、無事なの」という問い掛けに答えぬまま途切れてしまった。

 長男はその後、津波の水が引いたのを見て2階のベランダに下り、家の中に入れたという。そこでは数人の避難者が肩を寄せ合っており、夜中に捜索に回っていた自衛隊のボートで救出された。津波に巻き込まれた刹那、亡くなった人が大勢流されていくのを見たという。生還できた人々は誰も、奇跡に助けられたと言うほかなかった。

捜し続けた三男の死

 由美子さんは秀和さんを捜し続けた。自衛隊のヘリコプターが連日、大勢の被災者を救助していたが、どこに降ろしているのかも分からなかった。

 救急治療の拠点になっていた郊外の石巻日赤病院まで日に2回も歩いて往復し、他の避難所にも行って三男の名前を追い求めた。

 どこかの家の2階に寝かせてもらっているのでは、とも祈るように考えた。

「遺体安置所がある」と聞いたのは15日。開設場所の市体育館に行ってみると、収容された50人くらいの遺体が安置されていると聞いた。秀和さんの名前はそこになく、行方不明者として届けを書いてきた。

 同じに避難所に秀和さんの友人のお父さんがおり、17日朝早く、地元紙『河北新報』の姉妹紙『石巻かほく』を見せてくれた。

 それまで避難所に届く新聞は、外界の情報を求める被災者の手から手へ渡って、あっという間になくなった。初めて手にした紙面を見ると、死亡者名簿の欄に「鈴木秀和」の名があった。それまで気持ちを必死で保っていた母親は泣き叫び、半狂乱になった。

 外が明るくなった6時ごろ、はやる心で市体育館に向かったが、開くのは8時と知り、「こんな時まで役所は待たせるのか」と、やりきれぬ思いになったという。

 長男は被災を免れた実家に妹の家族と一緒におり、偶然、給水の帰り道に体育館に立ち寄って、母親から悲報を知らされた。

 死亡者欄に載った人々が市体育館のホワイトボードに記されており、そこに秀和さんの名前があった。

 安置所に入れるのは、警察官の付き添いで一度に1組だけだった。ひたすら、じっと順番を待って、実家の母親と知人に付き添われて対面した。

「違うんじゃないか?」「誰かに間違われたのでは?」と、いまある状況を拒みたい気持ちだった。少し離れた所からの印象は「秀じゃない」。だが、近づいて見た顔は確かに、捜し求めていた息子だった。

「あの日の地震の後、子どもたちや妹らと合流し、急いで避難所へ出発しようとした時、にわかに雪が降ってきた。フワフワした雪を、私は秀の前髪からそっと払ってあげた。おでこに触れた感触が忘れられない。最後に触ったことになったのだから」

 悲しむいとまさえなく、妹の夫から連絡があった。空前の被災に火葬施設の能力が追い付かぬ現実から、市は火葬を3月25日限りでいったん休止し、以後は「仮埋葬」をする方針だという。

「当時は土葬という言葉が使われていた。とても耐えられなくなり、急いで火葬の手続きをした。『Aの48』という番号が、秀だった。それからは時間の感覚が分からなくなった」

また手をつなげばいい                

 秀和さんは末っ子らしく兄たちからかわいがられ、性格が似ておっとりした長男とはパソコンやゲームでよく遊んだ。

 大好きだったのは野球だ。

 次男はシニアリーグ(硬球)の「石巻リトルシニア」でセンターを守った。秀和さんは同じチームのユニフォームを着ることにあこがれ、やはり次男が小学校時代に活動したスポーツ少年団のチームでプレーしていた。由美子さんは「週末ごとに兄弟2人の別々の試合を応援に行かねばならず、忙しかった」と回想する。

 秀和さんは小学校の卒業を間近にして、石巻リトルシニアで3カ月の体験練習をさせてもらった。日和山に上る階段を一緒に走ったり、夜の練習に参加したりして、やはり中学卒業で退団する兄と同じ背番号「8」「センター」への夢をますます膨らませた。

「秀は、お兄ちゃんの後をずっと追いかけたかった。次男の名前が入った体操着でも運動靴でも、喜んでお下がりを着たり、はいたりしたがった。スポ小のチームでは3年生の時に1年だけ重なったけれど、クリスマス会のビンゴを当てた時、次男が買っていったプレゼントをわざわざ選んでもらってきたくらい」

 張り切って石巻リトルシニアの体験練習に挑戦し、監督から合格点をもらって入団届を出したのが3月9日。

 正式に練習に初参加をすることになっていた日が、本来なら12日。その前日に大震災が起きてしまった。

 秀和さんのお骨箱を囲み、由美子さんの実家で樋口副住職が枕経を上げた日に戻る。

「俺、秀和の分まで2倍生きます」

 感極まった次男が家族の前で言った。

 わずか15歳で、愛する弟を助けられなかったという自責の思いを背負ってしまったか。樋口さんはあえて無情に「それは無理だよ」と諭した。

「大人ですら、これからどう生きたらいいのか分からない。お前はまだ子どもだろう。お前は背負わなくていい。野球を一生懸命にやって、勉強をし、就職をして、家族のために働き、子どもを育てていく。大人になるのは大変なんだぞ。まず、お前の人生をしっかり生きて、それから死ねばいい。最期の『さよなら』を言ったら、秀和が待っているところへ行けるよ。子どものユニフォーム姿で、『お互い、じいさんになったな』と笑えばいい。それまで、お前は思い出をいっぱいつくって、持っていって、弟に話してやれ。それが、お前にできることだ」

 樋口さんは続けた。

「秀和と手が離れてしまったというのなら、再び弟と逢った時に、また手をつなげばいい」                              (この項つづく)

寺島英弥
ローカルジャーナリスト、尚絅学院大客員教授。1957年福島県相馬市生れ。早稲田大学法学部卒。『河北新報』で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)などの連載に携わり、東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』『福島第1原発事故7年 避難指示解除後を生きる』(同)。3.11以降、被災地で「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を書き続けた。ホームページ「人と人をつなぐラボ」http://terashimahideya.com/