WTOで韓国に敗訴:禁輸解除が遠のいた宮城県産「ホヤ」の命運

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 かつてない大型連休というのに、4月末の牡鹿半島の道には車もまばらだった。石巻市内から東南の海に突き出した半島は、東日本大震災の津波で全域の町や漁村が流され、人口は現在2500人弱(牡鹿総合支署管内)と、震災前から半減した。リアス式の大小の入り江に漁船の姿は戻ったが、漁港の改修や後背地の整備、防潮堤の建設は未完のまま。復興にはほど遠く、半島の旅は集落跡の更地、土とコンクリートの工事現場を巡る観がある。

 訪ねたのは鮫浦。2019年1月29日の拙稿『韓国「禁輸」石巻名物「ホヤ」復活を目指す「若手漁師」らの奮闘』に登場したホヤ養殖の漁師、阿部誠二さん(35)にその後の状況を聞くためだった。

 被災地である福島、宮城、岩手、青森を含む東日本8県産の水産物の輸入を全面禁止している韓国を相手取り、日本政府は2015年8月、「科学的根拠のない差別的な措置。自由貿易協定に違反する」と禁輸解除を求めてWTO(世界貿易機関)に提訴した。2011年の原発事故の後、8県の一部水産物の輸入を禁止した韓国は、2013年9月、汚染水流出問題を契機に全水産物に対象を広げた。1審に当たるWTOの小委員会は昨年2月、日本の言い分を認めて「必要以上に貿易制限的」とし、ホヤやサンマなど28魚種の禁輸撤廃を促した。だが、韓国が上訴。海でつながる環境で、汚染水処理や廃炉などの事故処理が終わらない隣国の現状に対する懸念を訴え、最終審である上級委員会が4月11日、日本を逆転敗訴とする判断を下した。

 このニュースを阿部さんが知ったのは翌12日朝。上記記事で紹介した宮城県漁協谷川支所青年部(渥美政雄会長、14人)の仲間とともに地元漁師のホヤの初水揚げを手伝う日だった。青年部が活動する鮫浦湾は、牡鹿半島を南限とする国産ホヤの主産地、宮城県の浜々でも希少なホヤの天然採苗地だ。「誰もが敗訴を信じられず、暗澹たる思いで『大変なことになった』と話し合った」。被災地の水産物は国内市場でも原発事故後の風評にさらされ、放射性物質について各漁協などが国の基準を上回る、世界一と言える厳しい出荷前検査を敢行している。最終審に先立つマスコミ報道も、「韓国の敗訴濃厚」との見方を伝えていた。

 韓国の禁輸とWTO裁定を巡ってホヤが注目されたのは、震災前の2010年まで、毎年8000~9000トンの水揚げがあった宮城県産ホヤの7~8割が韓国に出荷されたからだ。「ホヤは、稚貝から1年で水揚げできるホタテやカキと違い、カキ殻を海に沈めて種付け(天然採苗)し、3~4年育ててやっと出荷できる」と阿部さん。浜々の養殖施設もすべて津波に奪われた鮫浦湾で、震災後の初水揚げは2014年4月だった。ホヤ養殖復活の喜びも束の間、漁師たちは「禁輸」の壁にぶつかり、大市場喪失の現実から再出発を強いられた。「WTOの裁定に、三陸でホヤを養殖する者が皆、出荷再開への希望を託していた。それを目標にして、苦境をしのいで頑張ってきた」。本来その朗報こそが、復興への希望でもあった。

置き去りにされた被災地

 日本敗訴の報が流れた4月12日、テレビのニュースや新聞の夕刊は政府首脳の発言を伝えた。「吉川貴盛農相は12日の閣議後の記者会見で『食品の安全性は否定されていない』と強調した」「日本産食品は科学的に安全との1審の事実認定が維持されたなどとして『敗訴したとの指摘は当たらない』との見解を示した」(いずれも『共同通信』)という。

 WTOには「衛生植物検疫措置(SPS)」協定があり、食品の安全基準を設けることを各国に認めているが、科学的な証明や危険があることの評価の明確化を要件とし、貿易の支障とならないよう求める。WTOの1審は、韓国の禁輸を協定の枠を超える不当な差別と判断したという。しかし今回の最終審は、1審での協定のとらえ方に誤りがあるとしながら、禁輸の基準が正しいか否か、放射線と食品の安全を巡る問題でも見解を出さなかった。さらに韓国の禁輸が自由貿易を逸脱しないとも判断せず、玉虫色とも言えた。

 最終審の報告書はWTOのホームページで公開されているが、長大な英文の上に専門用語が多く、国際会議慣れした人でもなければすぐに読み通せまい。多様なメディア情報を総合できる今だから、上記のような理解もできる。政府側の主張に沿った読み方をすれば、吉川農相や菅義偉官房長官の見解も導き出されたのだろうが、同23日の『朝日新聞』は「政府説明、WTO判断と乖離」との見出しで、報告書に(1)「日本食品は科学的に安全」という記載がない(2)1審での「日本産食品は科学的に安全であり、韓国の安全基準を十分にクリアする」との認定が最終審で「議論不十分」と取り消されていた――などを独自検証で報じた。菅長官らは報道に反論したが、真相がどうあれ、被災地には「敗訴」の事実しか残らない。

 3月30日の地元紙『河北新報』に載った『共同通信』のジュネーブ電は「(日本の)通商筋は、上級委ではパネルの事実認定を大きく揺るがすような審理はなかったと聞いているとし『他の事例から考えてもパネルの判断が大きく覆されるとは考えにくい』とした」と伝えていた。「勝訴が当然」との気分が政府内にあったのだろう。

 阿部さんはその後、インターネットで韓国紙などにも詳しい情報を求めた。それによれば、韓国政府の代表部は現地のホテルに作戦指令室を設けて3週間、約20人がシミュレーションを続けたといい、そのリーダー役に特別採用された専門弁護士の通商紛争対応課長はストレスで腫瘍ができるほど奮闘した――とのインサイド記事があった(4月15日『中央日報』日本語版)。「その間、政府の代表部はそこまでの必死さでやっていてくれたのか。一審が覆るはずがない、と安心していたのではないか」。それと同じ疑問は4月17日に開かれた自民党水産部会でも噴出し、「外交の敗北だ。外務省は油断していた」などの厳しい指摘が続出したと『共同通信』は報じた。

廃棄を強いられた苦境

 東京電力福島第1原子力発電所事故以来、東北の海に浮かんでいた暗い影が形になった、とも言えようか。政府は、原発構内の100万トン近い(当時)トリチウム汚染水を巡り、海洋放出を急ぎたい意向をにじませながら、昨年8月に福島、東京の公聴会で漁業者、消費者ら大半の参加者に反対され、結論を先に延ばした(福島「老舗魚店」に降りかかる「トリチウム水」海洋放出の難題(上)(下) 2018年10月5日)。

 福島、宮城をはじめ全国の漁業者も風評再発を恐れ、韓国からも政府や市民団体の懸念が報じられた(2018年10月8日『共同通信』)。問題の解決をあいまいにした政府の対応も、「原発事故はまだ終わらない」とする韓国側の姿勢に影響しているのではないか。被災地の多くの人がそう考えている。 ホヤの命運はどうなるのか。

 ホヤの出荷シーズンは4月に始まるが、阿部さんはこの日まで1度も、鮫浦湾の自分の養殖水域に船を出しての水揚げをしていなかった。「出荷先の水産業者から声が掛からず、仕方がない」と言う。震災前まで毎年60~80トンを水揚げした阿部さんの昨年の出荷量は、わずか33トン。震災後に種付けをしたホヤが出荷時期を迎えた2014年、県内の水揚げは約4000トンにとどまった。それでも出荷先は国内しかなく供給過剰となり、県漁協は2016年、約1万3000トンの総水揚げのうち約7600トン、2017年は約1万1700トンのうち約6900トンをやむなく廃棄した。昨年はシーズン初めに県漁協が生産調整を行ったが、「夏に死滅するホヤが増えていき、水揚げが少なかった。4月には海につるす養殖のロープ1本から150キロのホヤが揚がったが、6月には3分の1ほどに減った。何が原因か分からぬままだった」。

 それでも、巨大な風評被害である韓国の禁輸による減収補償を東京電力が継続し、養殖を営む漁業者を最低限支えてきた。だが昨年8月、東電は2020年末で補償を打ち切ることで県漁協と合意。韓国の禁輸解除を見込んでの対応と見られたが、日本の敗訴で漁業者の経営の先行きも見えなくなった(4月24日の『朝日新聞デジタルニュース』は、この問題で政府が、衆議院外務委員会で「厳しい状況におかれた漁業者に寄り添い、賠償に対して誠実かつ適切な対応が行われるよう指導する」と答弁した、と報じた)。

 三陸の漁業者は今、海の異変による生業の危機にある。ホヤ、カキとともに養殖の主役のホタテが、貝毒の異常発生で昨年4月から10月までほぼ全域で出荷の自主規制が続いた。水揚げ量は、同じ原因で「史上最悪」と言われた昨季の6割程度となった。岩手県南部も同様に自主規制が続き、水揚げ量は4割減。青年部の阿部さんの仲間にはホヤ、ホタテの両方を手掛ける人もいる。「津波の影響で養殖地の湾の環境が変わった」という研究者の指摘もあるが、やはり原因は不明だ。復興の土台である生業そのものが揺らぐさなかを、WTOでの敗訴が直撃したのだ。

韓国でも減るホヤの消費

「ホヤ養殖業者の3分の2以上は廃業に追い込まれるのではないか」――4月13日の『河北新報』に載った県漁協ホヤ部長のコメントだ。阿部さんも「養殖をやめる人が大勢出てくるのでは」と心配する。

 震災後、被災地の浜の高齢化も進んだ。実際に、70歳になった今年でホヤをやめると言う人が近所にいる。違う漁種へ転換する人もいるだろう。少なくとも国内市場と見合う出荷をする量に養殖を抑えていくしか、未来はない。若手が結束して復興の資源を守り、国内の市場を開拓しようと2016年9月に結成した谷川支所青年部は30~40代が中心だが、震災を契機として古里の浜に戻った仲間、まだ20代の若者もおり、個々でも青年部としてもホヤを生かし持続的に活動するための基盤をつくりたいという。

 地元でのホヤ料理イベントや直売の催し、東京の居酒屋での消費者との交流、ホヤ養殖の作業を手伝いに通った首都圏のボランティアたちを縁にした売り込みなど、阿部さんら青年部は市場開拓に挑戦してきた。

 ただ、現場を抱える生産者だけの努力での限界も感じた。青年部では地元のホヤ養殖の支援のほか、県水産部と協力してナマコの養殖実験を始め、メンバーが潜水士資格を取ってのダイビング作業で、ウニの資源化の可能性も模索する。阿部さん自身はなじみの水産加工業者と組んで「蒸しホヤ」を商品化し、ヒラメ漁にも収入の道を広げつつある。しかし全国を市場開拓で飛び回る余裕は仲間にもなく、韓国の禁輸解除が遠のいた今はなおさら、揺れる産地の未来をどう守るか、より重い責任を担うことにもなる。

「ここから韓国に輸出するようになったのは、父親とホヤの仕事を始めた18~19歳のころ。震災の10年くらい前だ。韓国で被嚢軟化症というホヤの病気で死滅が広がり、現地の業者がじかに買い付けに入ってきた」。韓国でホヤはキムチや海鮮料理に欠かせぬ食材で、業者が船で来ては海から養殖のロープ付きのまま買ったり、むき身を冷凍にして送ったりし、「地元でもホヤの生産が増えて、ホヤ養殖だけを生業にする人が出てきた」。そんなバブルのような出来事がホヤ養殖の歴史にあった。

 原発事故を契機として韓国が輸入規制を始めて8年。現地のホヤ事情はどうなったか。

『河北新報』の姉妹紙『石巻かほく』が2016年11月に韓国を取材した連載「苦境の宮城県産ホヤ」によれば、輸入規制の対象外である北海道産ホヤが代わって買われ、年々国内産の生産も回復しているが、景気低迷もありホヤの消費は減ったという。「宮城のホヤは品質が良かった。いつでも歓迎する」「震災前と同じ取引ができると思ったら大間違いだ」という2つの声が紹介されていた。

 阿部さんは数年前、福岡市のイベントにホヤ持参で参加した際の意外な出来事を語った。「若い韓国人の客が殻付きのホヤを見て分からず、『これは何だ?』と言った。韓国語で『モンゲ』(ホヤ)と答えると、『アー、モンゲ、モンゲ』と思い出した」。震災、原発事故の後の「食」の意識の変化もあっただろう。「韓国には、既にホヤの味を知らない世代が多くなったのではないか。商業捕鯨が禁止(1982年)されてから、石巻など沿岸捕鯨基地のあった地元を除いて、日本でクジラの味が忘れられたように」。

危機をチャンスにする挑戦

 5月3日、「宮城げんき市」と銘打つイベントが仙台市中心部の勾当台公園で催された。大型連休中の家族連れや観光客を集めたのが、目玉の「ほや祭り2019」。五月晴れの市民広場にずらりと並んだテントには、ホヤを食材にしたオリジナル料理の出店が23を数えた。

「ほや汁」、「ホヤあんかけ」、「ほやごはん」、「ホヤフライドポテト」、「ほやたまご」、「ホヤと夏野菜のガーリックオイル和え」、「ほや焼きそば」、「ホヤピザ」、「ホヤソーセージ」、「ホヤみそ漬け炭焼」、「春セリのホヤスープ」……。鮮やかなのぼりを競う出店ごとに行列ができ、いくつも巡って味比べをする客のにぎわいが、地元でのホヤの人気を物語った。WTOでの日本敗訴のニュースも、「宮城のホヤ」を消費者側から応援する気分を盛り上げたようだ。

 ひときわ長い30~40人の行列ができたのが、「ほや唐揚げ」ののぼりを立てたキッチンカー。塩竈市で2017年11月に店開きした「ほやほや屋」の社長、佐藤文行さん(59)が自ら厨房でホヤを揚げていた。自然な塩味と濃厚なうまみ、フライの香ばしさを1つにした創作料理で、店の一番人気という。キッチンカーに掲げた「とり唐を食ってる場合じゃねえぞ!」とのキャッチフレースも大げさでない、新発見の味である。「ホヤは生食が最高だと固まった発想でいる人が多い。それで鮮度の落ちた刺身や酢の物を食べ、『ホヤはこんなもの』と誤解してきた。東京など遠い所の人ほどね。そんな固定観念を打ち破りたい」と佐藤さんは語る。

 水産加工業の社長から転じてホヤの斬新な創作料理をヒットさせた佐藤さんを、『韓国「禁輸」石巻名物「ホヤ」復活を目指す「若手漁師」らの奮闘』でも紹介させてもらった。WTOの成り行きも注目しており、「日本の敗訴は明らかな油断。1審の結果から『これで大丈夫』という空気になった。禁輸が続けば、日本の鯨と同じように韓国のホヤの食文化が薄れていき、戻って食べる人も少なくなる」と言う。「それより、皆でホヤを地元宮城の名物に育てるように動こう。仙台の牛タン、ずんだ餅は有名になったが、材料は海外に頼らざるを得ない。ホヤは100%地元産。敗訴を嘆く前に、問題を解決していけるはずだ」

 佐藤さんは「ホヤの伝道師」と呼べるほどの活動ぶりだ。宮城県麺類飲食業生活衛生同業組合から招かれて、唐揚げと天ぷらを出席者に試食してもらい、「『ほや天そば』を名物にしよう」と提案した。中華料理の業界誌の取材では「海鮮系の具材にすれば抜群の存在感になる」とアピールし、北海道のキムチ製造業者とは「ほやキムチ」の開発で商談が進んでいるという。「カキも宮城の名産だが、生ガキが苦手でもカキフライは大好きという人がいる。ホヤが苦手な人も、ホヤの唐揚げを一度食べればファンになってくれる。行列のお客さんがそう。うまいものは誰でもうまい。ミネラルをはじめ栄養価も抜群だし、おいしい食べ方をどんどん提案することだ」

 石巻や女川町の養殖業者、近接の水産加工会社とじかに提携し、水揚げ適期の情報も「LINE」で共有し、むき身をすぐに冷凍保存する仕組みを開発した。日本中どこへでも最高の鮮度で届けるという。東京、大阪など各地でホヤ料理のイベントを企画し、ホヤを愛する人のクラブも催す。「西日本のほうが、いい評判をもらえる。ホヤを知らない人が多いから。まだまだ未開拓の新天地ばかり。むしろWTOでの敗訴を起爆剤にして、生産から料理までホヤに関わる人がつながり、生粋の宮城の特産品に育てたい」。

 暗いニュースに落胆せず、政府も当てにせず。危機をチャンスに変える発想こそが、被災地を救うか。

寺島英弥
ローカルジャーナリスト、尚絅学院大客員教授。1957年福島県相馬市生れ。早稲田大学法学部卒。『河北新報』で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)などの連載に携わり、東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』『福島第1原発事故7年 避難指示解除後を生きる』(同)。3.11以降、被災地で「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を書き続けた。ホームページ「人と人をつなぐラボ」http://terashimahideya.com/

Foresight 2019年5月14日掲載

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