見落とし注意! 上野千鶴子教授“祝辞”の核心部分

社会2019年4月27日掲載

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アナウンサーの大絶賛

 上野千鶴子東京大学名誉教授の東京大学入学式での祝辞が話題になっている。「Mr.サンデー」(フジテレビ系)では、全文掲載のパネルをスタジオに設置するという気合の入れよう。女性への不合理な差別などに言及した内容を、コメンテーターとして出演していた元フジテレビアナウンサーで弁護士の菊間千乃さんは「素晴らしい」と絶賛。また、三田友梨佳アナウンサーも女性の「生きにくさ」について語り、大いに共感したとコメント。好意的な街の声も紹介するなど、肯定的な意見が幅をきかせる構成となっていた。この番組に限らず、新聞やテレビなどはおおむね好意的な反応が目立つのだが、違和感を表明する人も少なからず存在している。

 例えば、作家の筒井康隆さんは、自身のコンテンツサイト「笑犬楼大通り」内の「偽文士日碌」の中で、こう綴っている。
「東大入学式の上野千鶴子の祝辞をテレビで見たが、あれは祝辞ではあるまい。『おめでとう』と最初に言っただけのフェミニズム論だ。昔、山口昌男との鼎談でひどい目に遭わされたが、相変わらずだなあと思う。差別されているんならなんで祝辞に立たしてもらえるんだよ」(4月14日)

“祝辞”の結論部分

 絶賛と同時に、反発も買っている要因の一つは、上野教授の祝辞の構成が複雑な点にあるだろう。医大の入試における「女性差別」を持ちだしながらも、東大の入試にはそういう差別はないといい、しかしながら東大内や社会には今でも差別が残っている、というフェミニズム論的な批判が繰り出され、さらに恵まれた東大生は、その能力を恵まれない人を助ける方向に使ってください、と言うという具合に、話が展開していくのだ。その途中には、「女性学」を作り、闘ってきたという自身の経歴紹介も挟まれていた。

 一方で、本来、祝辞の結論にあたると思われるのは、締めの部分だろう。ここについてはあまり批判は集まっていない。

「あなた方を待ち受けているのは、これまでのセオリーが当てはまらない、予測不可能な未知の世界です。これまであなた方は正解のある知を求めてきました。これからあなた方を待っているのは、正解のない問いに満ちた世界です。学内に多様性がなぜ必要かと言えば、新しい価値とはシステムとシステムのあいだ、異文化が摩擦するところに生まれるからです。
 学内にとどまる必要はありません。東大には海外留学や国際交流、国内の地域課題の解決に関わる活動をサポートする仕組みもあります。未知を求めて、よその世界にも飛び出してください」

 ここでの主張は、大学で学生を教えてきた人にかなり共有されているものなのだろう。京都大学名誉教授の永田和宏さんは、著書『知の体力』でほぼ同じメッセージを若者たちに向けて送っている(以下、「」内は同書より引用)

「答えは確かに〈ある〉。それが初等中等教育における『問題』の大前提である。そして先生はその答えを知っている。その正しい答えに、どうしたら自分たちも到達できるだろうか。先生が知っているはずの答えと自分のものが一致すれば正解で、違っていればバツ。それが入学試験も含めて、高校までの試験の問題であった。
 考えてみると、これは怖いことではないか。なぜなら、小学校から高校まで、誰もが一貫して、問題には必ず答えがあるということを前提とし、正解は必ず一つであると思い込んできたのだから。教師の側も、答えが二つも三つもある問題は避けてきただろうし、答えのない問題は出しようがなかった。
 どこかに正解があって、その正解は自分が知らないだけであって、誰かが(たぶん誰か偉い人が)知っていると、頭から思い込んでいること、その呪縛のまま、大学においても同じスタンスで教育を受け、そして社会に出ていく。そんな社会人ばかりが増えていくと考えることは恐ろしいことではないか。
 高校までの教育においては、これはやむを得ないことである。しかし、実社会に出て、そのような答えのある〈問題〉というのは、実は何ひとつないのだと言ってよい」

 だからこそ永田氏は、実社会に出る前に必要なものがあると言う。

「問題には一つの答えがあるものだと思ってきた教育と、何一つ絶対的な答えというものがない実社会とのあいだに、バッファー(緩衝帯)が必要だと私は思っている。大学の大切な役割の一つは、高校までの教育と実社会とのあいだのバッファーとしての役割である。高校を卒業して社会にでる人も多いわけであり、ほんとうは高校にもそのような役割があってほしいとは思っているが、少なくとも大学には、そのような役割は必須のものだと私は思う。

 これまでに教わってきた解き方、対処の仕方では対応できない問題に遭遇したとき、どのように自分で考えられるか、どのような解法を模索できるか、実社会に出れば、それは待ったなしの要請として現前するはずのものである。
 問いがあって答えがないという、それまでに経験したことのない宙づり状態に耐える知性。答えがないということを前提に、なんとか自分なりの答えを見つけようとする意志。それにめざめさせるのが、大学の4年間であり、その責務である。誰かに尋ねれば、必ず答えがあるはずだ、与えてくれるはずだという依存性から脱却する必要がある。
 文部科学省は大学の質保証ということを頻りに言っている。質とはどれだけの情報を詰め込むかではなく、社会には答えのある問題はないのだと、まず認識させることにあるように私には思われる」

 どちらの名誉教授も、それぞれの言い方で若者たちに語りかけている。とはいえ、永田教授のほうが反発は買いにくいかもしれない。一方で上野教授の祝辞が「クセがすごい」からこそ、大きな話題になったのも事実。どういう言い方が良いのか、これもまた正解のない話ということだろうか。

デイリー新潮編集部