「終活ライター」が父を亡くしてやっとわかったこと~息を引き取り、葬儀を終えるまで

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親の死に目

 3月1日。

 朝起きると、何となく嫌な予感がした。スマホを見ると、弟からLINEが来ていた。「深夜にすまんね。1時31分、父さんが亡くなったよ。できるだけ早く帰ってきてね」。

 不思議とそれほどショックはなく、「喪主頑張ってね」などと返信できるほどには落ち着いていた。

 父は定年後再就職し、新しい職場に親しい仲間ができていた。また、喪主を務める弟もまだ若い。そのため身内だけで行う家族葬とはせず、小規模ながらも一般葬を選択した。結果、その選択は正しかった。通夜・葬儀ともに予想以上に多くの人が参列し、私たちの知らない父の話を聞かせてくれただけでなく、涙を流して別れを惜しんでくれたからだ。

 私が葬儀場に着くと、父は湯灌を済ませ、すでに棺に入っていた。

 最後に父を見たのは1月27日だ。棺の小窓を開けると、少し痩せて急に老けたように見える父が、目を閉じて穏やかに微笑んでいた。

「苦しそうじゃないね。笑ってるように見える」。私が言うと、「20時半頃一旦家に帰るときはすごく苦しそうだったけど、0時半頃に病院から連絡があって駆けつけたときは、もう息をしてるかどうかも分からないくらい静かだった」と母。

 父の亡骸を見ても、母や弟と父の話をしていても、涙は出なかった。しかし通夜式の冒頭、司会者が生前の父を紹介し始めた途端、急に涙が溢れてきた。導師が入場し、お経が始まったとき、「ああ、本当に父は死んだんだ」と思った。

 それからぼんやり、「私は父の死に目に会えたのだろうか?」と考えた。

 思い返してみると、自分が最も激しく動揺したのは、救急病院の医師から父が倒れたことを知らされたときだ。あまりに突然だったこと。「父にはもう会えないのか?」という思いが湧き起こったこと。子どもの頃から今年1月4日までの、父との思い出が鮮明に蘇ったこと。さまざまな記憶や感情が津波のように押し寄せ、気が付いたら慟哭していた。

 父はいわゆる「いいお父さん」ではない。家族にとって父は悩みの種だった。よく母や弟と、「母さんが先に亡くなったら困るね」と話していた。それでも、ひょうきんで憎めない人柄で、思い出すのは笑顔ばかりだった。

 私は、父の臨終の場には立ち会えなかった。そのことを後悔し、自分を責めたこともある。しかし今は、「亡くなってから行くよ」と覚悟を決めたあのときの私は、間違っていなかったと思う。なぜなら、今の私は父が3月1日未明に亡くなることを知っているが、あのときの私は、父がいつ亡くなるか知らなかったからだ。

 父が倒れたと知ったとき、私は激しく動揺し、気が済むまで慟哭した。その後すぐに名古屋に帰省し、まだ父らしさの残る父に会えた。母が不安定になったときには、自分ができる限りのことを考え実行した。その瞬間瞬間必死に考え、選択肢を探し、覚悟を決めた上で決断してきた。だから父の亡骸を見ても、それほどショックではなかったのだと思う。

 私は父の死に目に会えたのだ。

 私は葬儀の簡素化によって発現した「偲び足らない」という問題を解消するひとつの方法として、グリーフケアというものを多くの人に知ってもらいたいと思い、特集を企画したが、当時は調べた知識や人からの情報だけで書いていた。しかし今回父の死を経験し、はっきりと断言できる。

 大切な人を亡くしたときに心の痛みを覚えるのは多くの人にあり得ることだ。しかし、その後も心の痛みを抱え続けるか否かは、自分自身の納得にかかっている。

旦木瑞穂(たんぎ・みずほ)
ライター・グラフィックデザイナー。愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する記事の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、「終活読本ソナエ」(産経新聞出版)、「月刊仏事」(鎌倉新書)、「エルダリープレス」(高齢者住宅新聞社)、「シニアガイド」(インプレス)など。

2019年4月3日掲載

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