ジャーナリストで慈善家の「バーナード・クリッシャー」が87歳で死去

国際

  • ブックマーク

Advertisement

 ジャーナリストのバーナード・クリッシャー氏が、3月5日、心不全により東京都内の病院で死去した。87歳だった。『ニューズウィーク』誌東京支局長を務めた後、『カンボジア・デイリー』紙を創刊し、NGO「ワールド・アシスタンス・フォー・カンボジア」を創設するなど、カンボジアの人道支援活動に尽力した。葬儀は近親者のみでニューヨークですませたという。

 カンボジア・デイリー紙は、カンボジア初の英字紙で、「あらゆるニュースを、恐れず、熱狂せず」伝えることをミッションに掲げていた。国内外の若手ジャーナリストを育成する場にもなったが、2017年9月にカンボジア政府により休刊を強いられ、現在はウェブ版のみとなっている。この休刊をめぐり、カンボジア政府は国際的な非難を浴びた。

 ワールド・アシスタンス・フォー・カンボジアは、カンボジア国内に計560校以上の学校を建設するとともに、プノンペンに医療センターを建設してきた。クリッシャー氏自身は資産家ではなかったが、人脈と持ち前の大胆さで、個人および世界銀行やアジア開発銀行から資金を集めた。親しい人たちから、バーニー・「プッシャー(押しの強い人)」とあだ名されたクリッシャー氏は、「私はいつまでもニューヨーカーだ。激しくて、権威やエリートとの対決を辞さない」と語っていた。

 クリッシャー氏が最も誇りにしていたプロジェクトは、カンボジアの貧しい人たちに無料で医療を提供する「シアヌーク病院ホープ医療センター」と、里子や孤児や学校がない農村部の子ども向けの教育センターだった。

 クリッシャー氏は1962年、ニューズウィーク誌東京支局の記者として訪日。その4年前にも、『ニューヨーク・ワールド・テレグラム&サン』紙の取材で6週間ほどアジア諸国を訪問しており、このとき日本で未来の妻となる昭子さんに出会った。2人はその後結婚し、クリッシャー氏が亡くなるまで58年間苦楽を共にした。日本に関心を持ったきっかけは、ラフカディオ・ハーンの作品だったという。

 1967年から13年にわたるニューズウィーク誌東京支局長時代には、歴代首相をはじめ政治家、財界人、文化人など多くの著名人にインタビューした。最もよく知られるのは、1975年の昭和天皇の独占インタビューだろう。天皇の訪米直前に1対1で行われた貴重なインタビューとなった。

 日本以外のアジア諸国にも数多く足を運んだ。1964年にはインドネシアのスカルノ大統領の独占インタビューに初めて成功。欧米のジャーナリストがスカルノのブラックリストにあった時代のことだった。そのスカルノを通じてカンボジアのノロドム・シアヌーク王子を紹介され、カンボジアに招かれた。

 ところが1965年、シアヌークは米国と外交関係を断ってしまう。これはクリッシャー氏がニューズウィーク誌に書いた記事をめぐり、米政府が謝罪を拒否したことが一因だった。しかしシアヌークは最終的に米国と国交を正常化し、クリッシャー氏とも親しい関係を構築。このことが、クリッシャー氏がカンボジアで人道活動を展開する道を開いた。

 クリッシャー氏は、韓国の政治家・金大中とも親しかった。金が反体制派として迫害されていたとき、韓国政府を批判するインタビューや記事をニューズウィーク誌に掲載。このため金は、1998年に大統領に就任したとき、長年の約束を守って、大統領としての初の単独インタビューをクリッシャー氏と行った。

 ニューズウィークを離れた後、クリッシャー氏は1980年にフォーチュン誌東京支局の開設に協力し、1984年まで同誌特派員を務めた。また、日本の大手出版社・新潮社の編集顧問として写真週刊誌『FOCUS(フォーカス)』の創刊に協力。同朋舎のWIRED日本版の立ち上げにも関わった。MIT(マサチューセッッツ工科大学)メディアラボの極東代表も務めた。

 1991年にパリ和平協定が結ばれ、約20年に及んだカンボジア内戦に終止符が打たれると、クリッシャー氏は1993年にカンボジア・デイリー紙を創刊した。シアヌークをはじめ多くの関係者が、命の危険があるとして反対したが、それを押し切っての創刊だった。カンボジアが復興と再生にわくなか、民主主義には報道の自由が必要だと、クリッシャー氏は考えたのだ。新聞とは権力者にしつこくつきまとうハエのようであるべきだと、スタッフに教えていたという。

 カンボジアで人道活動を始める精神的きっかけとなったのは、アルベルト・シュバイツァーだと、クリッシャー氏は語っていたという。シュバイツァーはアフリカで医療伝道に身を捧げ、ノーベル平和賞を受賞したドイツの医師だ。クリッシャー氏は1950年代にニューヨークでシュバイツァーに会ったことがあった。

 クリッシャー氏が自らの最大の功績と考えていたのは、1990年代半ばにプノンペンに建設したシアヌーク病院ホープ医療センターだという(敷地はシアヌーク国王が下賜)。この病院は貧しい人には無料で医療を提供し、農村部には遠隔医療を提供している。クリッシャー氏はこの病院の創設者で理事長だった。

 クリッシャー氏は1990年代に北朝鮮も何度か訪れ、飢饉に苦しむ人々に米と医療用品を届けた。

 クリッシャー氏は1931年8月9日、母親の実家に近いドイツのフランクフルトに生まれた。父親はポーランド系ユダヤ人で、ライプツィヒで毛皮店を営んでいた。1937年、一家はナチスの迫害を逃れるためオランダ、さらにはフランスへと移住した。パリでは2年間小学校に通ったという。しかしフランスにもドイツが侵攻してくると、一家はフランス南部へ逃れ、スペイン経由でポルトガルへ行くビザを取得しようとした。このときクリッシャー氏は、ポルトガル総領事だったアリスティデス・デ・ソウザ・メンデスと偶然出会う。メンデスは本国政府の命令に反して、クリッシャー家と無数のユダヤ人のためにビザを発行してくれた。

 こうして一家はフランスからスペイン経由でポルトガルへ逃れ、しばらく難民として暮らした。そして1941年、「運命の船」として知られるセルパ・ピント号でアメリカに渡った。船はエリス島に到着し、一家はニューヨークのクイーンズ地区に落ち着いた。当初は英語がわからなかったクリッシャー氏だが、公立小学校に通い、フォレストヒルズ高校を卒業し、1953年にはニューヨーク市立大学クイーンズ校で比較文学の学士号を取得した。

 クリッシャー氏は子どもの頃から、ジャーナリストになると心に決めていたという。12歳のとき、それまで配達していた雑誌が廃刊になると、自分でティーン向け雑誌『ポケット・ミラー』を創刊し、クイーンズの自宅アパートでガリ版印刷した。主な内容は、ベーブ・ルースやフランク・シナトラ、トリグブ・リー(初代国連事務総長)といった著名人のインタビューだった。

 ジャーナリズムのスキルのほとんどはこのとき学んだと、クリッシャー氏は言っていた。「この仕事に不可欠なのは、根気とエネルギーと熱意だ。そして最大の敵は、冷笑的な態度だ」

 クリッシャー氏は、大学時代に『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』紙の大学特派員兼雑用係の仕事を得て、1948年と1952年には民主党全国大会を取材。大学新聞『ザ・クラウン』の編集長も務めた。当時は赤狩りのピーク時だったが、教授たちを共産主義者だとしてブラックリストに入れたり、解雇したりする大学当局を批判して大目玉を食らった。それでも批判をやめなかったため、学長はザ・クラウン紙にクリッシャー氏を追放するよう要請するとともに、ヘラルド・トリビューンの編集主幹にもクリッシャー氏をクビにするよう手紙を書いた。ヘラルド・トリビューンはこの要求を拒否した。

 1953年、クリッシャー氏は徴兵され、ドイツのハイデルベルクに2年間駐留し、『星条旗新聞』ヨーロッパ版の記者を務めた。

 帰国後の1955年、『ニューヨーク・ワールド・テレグラム&サン』に記者として入社し、その後、編集補佐を務めた。1961〜62年には、フォード財団の高等国際報道奨学金を受け、コロンビア大学東アジア研究所で日本研究に従事。1962年、『ワールド・テレグラム&サン』を辞めて日本に渡り、ニューズウィークの記者になった。

 ホロコーストを逃れた経験について、クリッシャー氏がよく語っていたのは、自分たち家族を助けてくれた見知らぬ人たちの親切が忘れられない、ということだったという。その感謝の気持ちが、ジャーナリストとして成功した後、社会に恩返しをしたい、困窮する人々を助けたいという気持ちにつながった。

 昭子夫人との間に2人の子どもと、2人の孫がいる。

 晩年は、2017年12月に『アトランティック』誌に掲載された記事が誤解を招くものだったとして、同誌に対し名誉毀損訴訟を起こす準備もしていた。

フォーサイト編集部
フォーサイト編集部です。電子書籍元年とも言われるメディアの激変期に、ウェブメディアとしてスタートすることになりました。
ウェブの世界には、速報性、双方向性など、紙媒体とは違った可能性があり、技術革新とともにその可能性はさらに広がっていくでしょう。
会員の皆様のご意見をお聞きし、お力をお借りしながら、新しいメディアの形を模索していきたいと考えております。
ご意見・ご要望は「お問い合わせフォーム」や編集部ブログ、Twitterなどで常に受け付けております。
お気軽に声をお聞かせください。よろしくお願いいたします。

Foresight 2019年3月25日掲載

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。