リカちゃんを生んだタカラ創業者 「おもちゃの王様」佐藤安太さん

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 誰もが一度は遊んだことがあるおもちゃの数々を世に生んだ「王様」だった。週刊新潮のコラム「墓碑銘」から、佐藤安太さんを偲ぶ。

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 1967年の発売以来、半世紀余り。リカちゃんは累計6千万体以上が販売され今も人気は衰えない。

 リカちゃんを世に出したのが、玩具メーカーのタカラ(現・タカラトミー)を創業した佐藤安太(やすた)さんである。

「売れても飽きられるのも早い玩具業界は難しいが、タカラの玩具はロングセラーが多い。基本を変えずに丁寧に作り、時代の変化を取り込む工夫を地道に続けてきた成功例です」(「財界」主幹の村田博文さん)

 24年、福島県沢渡(さわたり)村(現・いわき市三和(みわ)町)生まれ。米沢工業専門学校(現・山形大学工学部)で応用化学を学ぶ。学徒動員先では空襲に遭い九死に一生を得た。

 53年、東京・葛飾にタカラの前身となる佐藤加工所を設立。塩化ビニールをレインコートなどに加工した。ビニール人形も手がけるうち、60年、椰子の木にだきつくイメージで黒い人形を作る。一商品の扱いだった。

 ところが、ダッコちゃんと呼ばれて注文が殺到する。1年で240万個も売れたが、利益率は高くなかった。

 息の長い商品を作りたいと熟考の末、67年に誕生したのがリカちゃんだ。少女漫画を参考にした表情は親しみやすい。試作品を見せ、小学生の意見を取り入れた。子供達が物語を膨らませられるように、性格や父親はフランス人といった家族の背景、世界観も伝えた。

 66年に入社、後に社長も務めた奥出信行さんは言う。

「ものだけを作っているのではない、情報も作っているのだ、と佐藤社長は話していました。リカちゃんは今で言うキャラクター設定をしたわけですが、当時としては新しかったのです」

 ジャーナリストの小宮和行さんは取材時を思い出す。

「戦争で生き残った以上、世の中に何か貢献したいという命懸けの気迫がありました。無理だという声をよそにリカちゃんを定着させた。玩具で遊んだ記憶は一生残る、想像力や優しさが育って欲しいと子供のことを第一に考えていた」

 68年発売の人生ゲームはアメリカのゲームだが、双六の要素があるから受け入れられると閃(ひらめ)いた。精巧なゼンマイで快走するチョロQも人々の心をつかんだ。

「ヒットしても安心せず、なぜ子供達が喜んでくれたのか調べさせました。我々が思っていたのとは違う反応でヒットしている場合があるからです」(奥出さん)

 フラワーロックも88年以降、世界を席巻した。

「音に反応して動くのらくろの玩具が、子供より若い女性に売れているとつかむと、花を擬人化することを考え出した。帰宅したOLがフラワーロックに話しかけたり音楽をかけると踊ってくれる。癒しのさきがけで、玩具とのコミュニケーションでした」(奥出さん)

 一代で日本有数の玩具メーカーを築く。ヒットの極意はわからないと正直だった。

「現場の企画力とトップが子供の感性を見抜く力が絶妙に作用した」(小宮さん)

 トランスフォーマーは、アメリカで映画の製作が続くほど世界的な人気に。TVゲームのような新分野とは一線を画した。

 91年、東証1部に上場、93年に福島県小野町にリカちゃんキャッスルを開くと、1年で30万人もが訪れた。

 94年、赤字決算の責任を取る形で会長に退き、長男の博久さんが社長に。だが、99年に75歳にして社長に復帰し、お家騒動かと驚かれた。翌2000年、今度は次男の慶太さんに社長を継がせた。その後、タカラは06年にトミーと合併する。

 経営の伝承は難しい、と人材づくりの方法論に関心を持つ。10年に山形大学大学院で「未来設計と成功エンジニアリング」の研究により、86歳で工学博士号を取得、後に教鞭も執った。

 2月26日、老衰のため、94歳で逝去。

「我々にとってはいつまでも社長でした」(奥出さん)

 生み出した玩具が末永く愛され、共に働いた仲間から慕われるとは、果報者だ。

週刊新潮 2019年3月14日号掲載

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