日本文学を世界に伝え、日本を愛した「ドナルド・キーンさん」博識と現場体験

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 7年前の日本国籍取得時に発表した雅号は、「鬼怒鳴門(きーん・どなるど)」。“鬼怒川”と“鳴門”の地名から漢字をとったと、ご本人は語っていた。週刊新潮のコラム「墓碑銘」から故人を偲ぶ。

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 戦後、世界が日本文学に注目し、研究が進んだ背景には、ドナルド・キーンさんの粘り強い努力があった。

 覚悟が違った。日本語を習得しなければ、日本を本当には理解できないと、海外の研究者にとっては厄介な漢字も覚えたのだ。

 長年の友人でジャーナリストの徳岡孝夫さんは言う。

「のめりこむ人でしたね。研究では原典に必ず当たる。伝統芸能を学べば日本文化がよりわかるのではと狂言を習う。美術や工芸にも造詣が深い。自分の中に日本を取り込んでいたのです」

 1922年、ニューヨーク生まれ。父親は貿易商。飛び級により16歳でコロンビア大学に進む。両親の離婚で生活は苦しかった。

 英国の東洋学者アーサー・ウェイリーが英訳した『源氏物語』を18歳で読んで心を奪われる。大学では角田柳作(つのだりゅうさく)さんの「日本思想史」を受講するが、日本への関心は非常に薄い時代だ。

 日米開戦後は、海軍日本語学校で特訓。日本語文書の翻訳や捕虜の尋問をした。

「日記や手紙を読んで日本人の心情に触れたそうです。米兵はママのアップルパイが早く食べたい、などと書くのに比べ、日本兵はなんと繊細なのかと衝撃を受けた」(徳岡さん)

 日本軍最初の玉砕地アッツ島や沖縄での作戦に参加、特攻隊の攻撃も間近に見た。終戦から間もない東京の惨状も目撃している。

 53年には念願の日本留学が実現。55年まで京都大学大学院に学ぶ。後に文部大臣を務める永井道雄さんや中央公論社の嶋中鵬二(ほうじ)さんの知遇を得て世界が広がる。

「日本文学を学ぶ留学生なんてほとんどいない。日本語を話せるキーンさん自身がニュースになった。男には会わないと言われていた谷崎潤一郎が何度も食事に招いたほどで、川端康成のような著名な作家も喜んで接してくれた」(徳岡さん)

 コロンビア大学で教えながら日米を往復し、近松門左衛門や松尾芭蕉など古典を中心に研究を続けた。

 三島由紀夫と特に親しくなる。三島の『近代能楽集』や『宴のあと』などを英訳。三島の才能を世界に説いた。ノーベル文学賞の選考委員会は日本文学に対するキーンさんの知見を参考にしていた。68年の川端のノーベル賞受賞を祝福しながらも、三島の受賞を願っていたのが本心のようだ。

 宗教学者の山折哲雄さんは対談した当時を思い出す。

「柔らかい日本語をゆっくりと話すのです。私達が忘れてしまった日本語の美しさがありました。自己主張をするタイプではなかったですね。日記文学の中に日本人の軸があると考えたり、心の世界に分け入る視点にはっとさせられました。生まれながらの日本人以上に日本人になっていた」

 著作は日本語でも英語でも。『日本文学史』(後に『日本文学の歴史』に改題)のような労作も多い。

「列車の食堂車で揺れるたびにお皿が動くと、スープが逃げますね、と日本語で言ったことが忘れられない。そんな機知とユーモア、学問への誠実さの両面を持っていました。家でパーティーをすると、安部公房夫妻や庄司薫・中村紘子夫妻らが集まってくつろいだ。最後に食器を洗うのはキーンさんと私でした」(徳岡さん)

 2008年に文化勲章を受章。12年、89歳で日本国籍を取得した。生涯独身だったが、古浄瑠璃の復活に尽力した縁で、義太夫節や古浄瑠璃の三味線を弾き活躍してきた上原誠己(せいき)さんを12年に養子に迎えている。

 晩年も意欲は衰えず、11年末から『ドナルド・キーン著作集』(全16巻)、16年には石川啄木の評伝『石川啄木』ともに新潮社刊)を世に出した。

 昨年秋から体調を崩しがちになり、2月24日に心不全のため、96歳で逝去。

 国文学は自国の文化の基本です。現代語訳でも構わないから、古典に関心を持って下さい、きっと良さがわかります、と語っていた。

週刊新潮 2019年3月7日号掲載

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