“鳥人”と呼ばれた驚異のジャンプ 「ニッカネンさん」の栄光と転落

スポーツ

  • ブックマーク

Advertisement

 人生に山あり谷ありとはいうけれど、この人の場合は、スキージャンプのごとく急降下……。週刊新潮のコラム「墓碑銘」から、ニッカネンさんを偲ぶ。

 ***

 マッチ・ニッカネンさんは、ノルディックスキー・ジャンプ男子で圧倒的な強さを誇り、“鳥人”と呼ばれた。原田雅彦、葛西紀明、船木和喜といった名選手が、憧れだったと語るほど日本にも影響を与えている。

 4シーズンで総合優勝を飾ったスキージャンプ・ワールドカップでは、通算46勝を挙げ、2013年まで最多記録を保持した。冬季五輪では1984年のサラエボ五輪に初出場。90メートル級(現・ラージヒル)で金メダル、70メートル級(現・ノーマルヒル)で銀メダルを獲得した。88年のカルガリー五輪では個人2種目に団体を合わせ、全て金メダル。ジャンプで1大会3冠の五輪記録は現在も破られていない。

 国際スキージャーナリストの岩瀬孝文さんは言う。

「天才を超えた天才でしたね。真似をしようにも追いつけない。スタート地点に向かう時点から凄まじく集中している様子が伝わってきました。一方で、遠くまで飛べばいいんだ、と細かなことは考えていなかった。体が無意識のうちに即応して飛んでいたのです」

 63年、フィンランドのユバスキュラ生まれ。82年、18歳で世界選手権の個人90メートル級で優勝。84年のサラエボ五輪出場時には世界の第一人者になっていた。

「飛行」ばかりか「非行」も凄いと日本でも報じられた。不良少年だったが、金メダリストになってからも、競技場の売店からビールを盗んで捕まる。酒が入るとすぐにケンカ。報道陣とももめるのだ。とはいえ、素行の悪さを打ち消すほど強い。

 札幌冬季五輪70メートル級の金メダリスト、笠谷幸生さんは、サラエボとカルガリーの両五輪で日本代表チームのコーチを務めた。

「勝つ目標のひとりでしたが、差が縮まらない。歯が立たなかったですね」

 週刊新潮に「オリンピック・トリビア!」を連載中の吹浦忠正さんも思い起こす。

「カルガリーで称賛されましたが、あまりに強すぎた。そのせいか、反対に最下位でも英国のマイケル・エドワーズの愛嬌ある姿が大人気になったほどです」

 体の前にスキーをそろえ、腕を体側につけて飛ぶクラシックスタイルを少しずらしたような独自の空中姿勢で、飛距離を延ばした。

 しかし、スキーをV字に開く飛型が主流に置き換わると急に順位を落とした。

「長年体に染み込んだ姿勢から、V字には変更できなかったのです」(岩瀬さん)

 91年に事実上引退。再起を期して92年に北海道名寄市のピヤシリ・ジャンプ大会に参加したこともある。

 歌手になったり、スポーツウェアのモデルなど職を転々。98年に長野で冬季五輪が開催されている頃には、男性ストリッパーに身をやつした姿を新潮社の「FOCUS」が報じている。アルコール依存症が進み、精神的にも落ち込んでいた。

「フィンランドに取材に出かけた時、朝のテレビ番組にニッカネンが出演する姿を見たことがあります。急に喋らなくなったぞと思ったら生放送なのに眠ってしまっていた」(岩瀬さん)

 04年から09年にかけて知人や妻をナイフで刺すなど、殺人未遂を含む事件をたびたび起こし服役もしている。

「英雄を叩きのめすのではなく、相変わらずしょうがないな、と現地は温かく見守っていました」(岩瀬さん)

 離婚後同じ女性と再び結婚した1例を含めると、86年以来、生涯6回も結婚。子供は3人もうけている。

「ニッカネンの転落は極端ですが、引退後の第二の人生の方が長く、組み立てが難しいことは世界共通の悩みです」(スポーツジャーナリストの谷口源太郎さん)

 2月3日、フィンランドの自宅で55歳で逝去。死因は伝えられていないが、糖尿病と診断されていた。飲酒はやめられなかったようだ。

 ワールドカップのジャンプ男子競技の会場でも追悼された。画面に勇姿が映し出されると、選手や観客は名前を連呼し栄光を称えた。

週刊新潮 2019年2月21日号掲載

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。