「矢沢永吉」公演を出禁になった私設応援団会長 知られざる永ちゃんファンの“掟”

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出禁は“矢沢からのメッセージ”

 矢沢永吉のコンサートは、飲酒入場の禁止やチケット売買の禁止など、他のアーティスト以上に厳格なルールが設けられているという。

「ほとんどのファンは、なぜこうもルールが厳しくなったのかを理解しているので、みんな普通以上にマナーがいいですし、会場も純粋に音楽を楽しもうという健全な雰囲気です。『同じ永ちゃんファンの仲間だ』という連帯感があり、50代のファンと20代のファンとの交流があったりして、排他的な感じもありません。だけど、世間ではいまだに昔のガラが悪いイメージが残っている。『矢沢永吉論』では、この誤解を解きたいという気持ちもありました。今回の出禁騒動も、何か直接的に問題行為があったというより、“昔の私設応援団を想起させるようなイメージは、もう勘弁してほしい”という矢沢永吉からのメッセージだと思います」(浅野氏)

 90年に禁止された私設応援団の問題行為とはどういったものだったのか? 一説によれば、83年頃から全国各地で私設応援団が結成されはじめ、最盛期には少人数の団体から全国に支部を持つ2000~3000人規模の団体まで、40~50もの私設応援団が存在したという。刺繍入りの特攻服をユニフォームとした団体が多く、これがまず“集団の威圧感”として問題視された。

 90年の私設応援団禁止に続き、91年に特攻服とチケット私的売買の禁止、00年代中頃には飲酒入場の禁止と「永ちゃんコール」の強要が禁止されたとされる。こうした徹底した浄化作戦には、きっと「どこかで歯止めをかけなければ、どんどんエスカレートする」という懸念があったのだろう。

 話を戻せば、私設応援団は見た目こそ暴走族のようだが、基本的には交代制でチケット売り場に並ぶためのファンの集まりだった。しかし、一部に悪質な私設応援団も存在した。インターネットなどなかった時代は、チケット販売の整理券が配布されており、早い番号をまとめて取り、後から来た人に整理券を売りつける団体もあったという。このダフ屋にも近い行為が、“禁止”の発端となった。当時を知る50代の男性ファン氏はこう語る。

「その他にも、暴走族のワルな団体が弱小団体をシメて傘下に入れたり、特攻服を着た団体に囲まれて余ったチケットを買わされたり、いろんな苦情があって私設応援団が禁止になったんです。80年代当時は、ケンカもしょっちゅうでしたよ。酒を飲んで入場できたし、シンナーを吸ってる奴もいたからね。そういう連中が最初から最後までバカ騒ぎをしていて、後ろの客が咎めると、逆ギレしてケンカになるのがいつものパターンでしたね。いろんな騒動を見てきて、ルールが厳しくなるのも仕方ないと思っていました」

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