「北澤」「福田」「加藤」が振り返るJリーグ元年 写真週刊誌の対策をカズ助言

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三足のわらじ

 だが、Jリーグに飛び込んだものの「プロ」の現実に戸惑う選手も少なくなかった。浦和を本拠地にしたレッドダイヤモンズ(浦和レッズ)は、三菱重工のサッカー部が母体だが、後に“ミスター・レッズ”と呼ばれた福田正博も社員からの転身組だ。

「三菱重工の社員を辞めてプロになったときは上司から“三菱に何か不満があるのか”と言われたほど。それぐらい安定していて良い会社だったのです。実際、プロといっても環境はシビアなものでした。当時の浦和には専用練習場もクラブハウスもない。車中で着替えて、練習後は公園の水道で身体を洗うような毎日。三菱重工のサッカー部時代は月給18万円でしたが、プロになっても月100万円ぐらい。これからはサッカーだけで稼がなくてはいけないと、身が引き締まる思いでした」

 この93年、レッズはファーストステージもセカンドステージも最下位。だが、浦和にやってきたプロサッカーチームを地元ファンは熱狂的に支持した。レッズがJ1を制するのは、それから11年後のことである。

 開幕したばかりのJリーグには“三足のわらじ”を履く選手もいた。ヴェルディの加藤久である。本人によれば、

「Jリーグ開幕の時点で僕は37歳。Jリーガーとしてはかなりの高齢でした。その37歳の男が、早稲田大学で助教授として週8コマの授業を持ち、水曜と土曜に試合に出る。おまけにサッカー協会(強化委員)の仕事もしていたのです。学内には“どれかを辞めたら?”という雰囲気がありましたが、聞こえないフリをしていました」

 加藤はJリーグ初年度に移籍第1号として清水に移る。だが、あまりのハードスケジュールに血尿が止まらなくなり、1年を待たずにヴェルディに復帰。そして引退する。

「今にして思えば不可能なことをやれると信じて、やっていたんですね」(同)

 誰もが手探りだったJリーグ元年。四半世紀を経て、日本のサッカーは、どれだけ「世界」に近づくことができたのだろうか。

週刊新潮 2019年1月3・10日号掲載

ワイド特集「平成30年史の『俗物図鑑』」より

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