「加藤の乱」山拓が今だから明かせる「大将討ち死に」を止めた男

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“勘弁してくれ”

 山崎氏が続ける。

「野中さんは加藤さんが幹事長だった時に幹事長代理を務め、加藤さんを高く評価していた。その野中さんに“採決に出席したら自分が処分しなければならなくなる。それだけは勘弁してくれ。出ないでくれ”と説得され、やむなく加藤さんは引き返したのです。“拓さん一緒に帰ろう”と」

 しかしその後、再び2人はホテルから国会に向かったが、そこでも野中氏に行く手を遮られたという。

「加藤の乱が終わると、野中さんはパッと幹事長を辞めた。勝者なんだから責任を取る必要はなかったのですが、勝者になりたくなかったんですよ。それほど加藤さんに対する思い入れは深かったのです」(同)

 この件で失脚した加藤氏は、二度とメインストリームに戻れなかった。一方、これを踏み台にして宰相の座をつかみ取ったのが、小泉純一郎元総理である。

「加藤の乱の3週間後、毎年恒例の私の誕生日パーティーが行われたのですが、呼んでいなかったはずの小泉が姿を見せました。そこで“YKKは友情と打算の二重奏だ”と宣(のたま)ったわけですよ。そして“私は打算でここに来た”と。皆さん意味が分からず唖然としていましたが、僕にはすごくよく分かった」

 と、山崎氏。

「加藤の乱の当時、小泉は森派の会長として防戦に努め、僕を説得にかかった。その際、僕は“今回は加藤さんの味方をするけど、次は小泉さんの味方をする”と言った。パーティーに現れた小泉が言いたかったのは、今度は俺を応援しろ、約束したじゃないか、そういう意味です。それで小泉は実際に政権を取った」

 失敗したからこそ、「加藤の乱」は陰影に満ちたドラマになったのだ。

週刊新潮 2019年1月3・10日号掲載

ワイド特集「平成30年史の『俗物図鑑』」より

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