中国人の「行動原理」と「思考法」を掘り起こす

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 日本において、「中国人とは何か」というテーマは永遠のものだ。しかし、日本の出版界で、それなりに読み応えのある中国人論を探し出すのは実は難しい。

 日本には中国問題の専門家は山ほどいるが、中国人論に切り込んでいった研究者やジャーナリストは少ない。「中国人」とはあまりにも広大かつ多様な人々で、おいそれと1冊で書き切れるものではないという思いが、日本人にはあるからかもしれない。

 また、戦後の日本人は真正面から中国人論を語ることをどこか避けていたようにも思える。戦前の日本の中国研究において政治から文化まで幅広く論じる「シノロジー」(中国学)に携わっていた人々が、中国に関する知識を戦時体制のなかで利用されることで、結果的に日本の中国侵略に言論面で加担した、という罪悪感が共有されていたからだ。

 そのためか、戦後日本の中国人論で思い浮かぶのは、陳舜臣の『日本人と中国人』か、邱永漢の『中国人と日本人』くらいである。

 陳舜臣と邱永漢。どちらも台湾出身者で、戦前には「日本人」教育を受け、一方で漢人としての教養もあり、中国古籍の原典も読むことができた人たちである。

 彼らの本は、いわば日本と中国の両方を「台湾」という客観的な立場から書いたものであり、両国の間に立たされてきた台湾人の中間的な立場をうまく活用したものだ。

 その後、中国脅威論が台頭する2000年頃までに、在日の中国人ジャーナリストや研究者による中国人論も複数出版されたが、読み継がれるものにはなっていない。

 しかし、外国事情をその国の人だけに語ってもらっている状況は、必ずしもいいこととは言えない。日本人に必要な情報は日本人から語ってもらう方がいい部分もある。とりわけ昨今は中国との経済・人的交流が深まる一方なので、中国人理解の必要性はさらに高まっていることは言うまでもない。

「目から鱗」の中国人論

 その意味で、待望とも言える1冊が、田中信彦著の『スッキリ中国論 スジの日本、量の中国』(日経BP社)である。

 著者の田中氏は上海に長く暮らし、ビジネスコンサルタントをしながら、日本のメディアにも中国の時事評論を書いてきた人で、その鋭い中国人論にはいつも感心させられてきた。

 本書はその集大成とあって迷いなく手にとると、手垢のついた表現かもしれないが、「目から鱗」と思えるような記述にあふれ、陳舜臣や邱永漢の著作以来、長く出現しなかった読み応えのある中国人論となっている。

 本書は「スジ」を通すことにこだわる日本人と、何事も「量」を基準に考える中国人というところに、比較の軸を定めている。「スジ」とは「べき」論とも言い換えていいが、日本人は「こうあるべき」というところからものごとを考えるのに対して、中国人はまずは量的影響の大小でものごとを決めていく。それは、「現実に影響があるかないか」をすべての判断基準とする中国人と、理想や規則を前提に考える日本人との違いである、と田中氏は言い当てている。

 例えば、列に並ぶときに割り込みをする問題についても、「田中理論」ではすっきり説明される。つまり、中国人は自分の並んでいる列に1人や2人が割り込んできても、最終的な待ち時間にほとんど影響がでないので無視するが、日本人は割り込みの人数の多寡にかかわらず、列を作るというルールがあるのだから守らないのはおかしいと考える。

 個人的な経験で言えば、日本で出版した本を中国で翻訳する際に、政治的に敏感な内容について、どこを削除し、どこを残すのか、という問題に必ず直面する。そのとき、中国の出版社から「その部分は原則問題で、絶対に残すことはできない」とビシッと拒絶されることがしばしばある。

 ここで「原則」という言葉は別に何がダメだというルールがあるわけではなく、彼らなりに当局から問題視される影響の大きさ=「量」を測った結果、「それをやってしまうと我々がが大変なことになるからできない」と訴えているのだ。あくまでも基準は「量」のリミッターを超えているかどうかであり、杓子定規に「だめなものはだめ」と言っているのではないのである。

メンツも「大小」で表現

 本書で田中氏は、「量の中国人」という考え方を敷衍し、中国人論で欠かせない「メンツ」問題にも説得力ある解釈を加えている。

 中国では「メンツが大きい(面子大)」という表現を使う。これは、まさにその人の能力や影響力の及ぼす範囲が大きいことを言っていて、つまりは量を示しているのだと田中氏は指摘する。

 日本人の理解するメンツは「体面」という意味が強く、「良し悪し」で論じられる。それで中国人は体面を重んじる人々だと思いがちだが、それは少しずれた理解で、実際は体面ではなく、実力重視であることをちゃんと認識すべきなのだ。

 中国では、その人の実力に誰もが敏感に反応する。それはその人のメンツ(=実力)を意味しており、自分の利益や出世、生活を左右するクリティカルな問題であるからだ。逆に、メンツが小さいと見なされるのは、小物だと思われることであるから、誰も相手をしなくなる。そうならないよう中国人はメンツを重視するということだ。

 私も、中国人を見ていて思うのだが、実力者に対してとても慎重かつ従順な言動を見せることが多い。職場でも宴席でも、彼らに無礼講はない。それは、メンツの大きい人に小さい方が従う、という見えない原則があるからだ。

 ちなみに、中国語では暑い日のことを「太陽が大きい」とも表現する。太陽が大きいなんて変だな、暑い日は太陽が大きく見えるのかなと、単純に思ってきたが、田中氏の指摘を読んで、これも太陽の輝き(=実力)が強いことを意味しており、形状的に大きいということを言っているわけではないのだと気付かされた。

 日本と中国は似ているように見えるが故に、かえってお互いに誤解を生みやすい。日中の間には根本的に異なる発想や物の見方がかなり多く存在しているからだ。

 一方で、東京五輪やインバウンドの拡充によって、ますます多くの中国人に生身で触れる機会が、日本人にも増えていくだろう。中国人の精神の深いところを掘り起こしているこの本を読んでおけば、彼らの行動に悩まされることも減るはずである。

野嶋剛
1968年生れ。ジャーナリスト。上智大学新聞学科卒。大学在学中に香港中文大学に留学。92年朝日新聞社入社後、佐賀支局、中国・アモイ大学留学、西部社会部を経て、シンガポール支局長や台北支局長として中国や台湾、アジア関連の報道に携わる。2016年4月からフリーに。著書に「イラク戦争従軍記」(朝日新聞社)、「ふたつの故宮博物院」(新潮選書)、「謎の名画・清明上河図」(勉誠出版)、「銀輪の巨人ジャイアント」(東洋経済新報社)、「ラスト・バタリオン 蒋介石と日本軍人たち」(講談社)、「認識・TAIWAN・電影 映画で知る台湾」(明石書店)、訳書に「チャイニーズ・ライフ」(明石書店)。

Foresight 2018年12月27日掲載

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