「ヤマト建国」に隠された淡路島の「不運な歴史」

ライフForesight 2018年11月10日掲載

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 新潮文庫「古代史謎解きシリーズ」の淡路島・大阪編を上梓した(『「始まりの国」淡路と「陰の王国」大阪』)。毎度おなじみ、新潮文庫編集部・高梨通夫氏と、凸凹道中だ。

 今回の取材は、大阪が中心のはずだったが、淡路島で、意外な発見があった。淡路島は、瀬戸内海を塞ぐ巨大な「フタ」で、西側の海域は古代の海人(あま)の楽園だった。そしてここに、淡路島のみならず、ヤマト建国、古代史の謎を解くための大きなヒントが隠されていたことに、気付かされたのだ。

 淡路島はイザナキとイザナミが磤馭慮(おのころ)島の次に生んだ土地だ。また、伊勢内宮(三重県伊勢市)と淡路島の伊弉諾(いざなぎ)神宮(兵庫県淡路市)、そして葛城山は同緯度線上にあって、聖なるラインを形成している。だから、伊弉諾神宮はパワースポットと信じられ、多くの参拝客が訪れる。淡路島は、日本を代表する聖地なのだ。

 しかし一方で、淡路島は「罪を犯した貴種を流竄する場所」でもあった。8世紀に淳仁天皇と早良親王がこの島に流された(早良親王は移送途中で亡くなり、遺骸が淡路島に埋葬された)。この、光と影を、どう説明すれば良いのだろう。

 ここに、淡路島の複雑な歴史が隠されている。順番に説明していこう。ヤマト建国前後に、淡路島は大きく揺れ動いていたのだ。

淡路島の立場

 近年淡路島で、弥生時代後期の鉄器生産工房が2つみつかっている。五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡(淡路市黒谷)と舟木遺跡(同市舟木)だ。

 五斗長垣内遺跡が先にみつかり、すでに復元され、公園になっている。弥生時代後期の1世紀ごろに約100年続いた鍛冶工房だ。かたや舟木遺跡は、弥生時代後期の2世紀半ばから3世紀の遺構で、こちらは邪馬台国の時代の鉄器工房だ。

 邪馬台国の時代の畿内は、鉄器の過疎地帯だったが、淡路島で盛んに鉄器が作られていたことが分かって、邪馬台国畿内説の証拠になるのではないかと騒がれている。しかし、畿内から鉄はほとんど出てこないのだから、それはまちがいだ。さらに、淡路島から出土した銅鐸は、出雲のものと兄弟関係だったことが分かっている。淡路島に鉄の素材を流していたのは、出雲だろう。ここに、淡路島の立場が示されている。

 弥生時代の最先端地域は北部九州で、朝鮮半島の鉄を独占的に入手していた。連載中述べてきたように、北部九州は天然の要害に守られたヤマトの発展を恐れ、策を練って出雲と手を組み、関門海峡を封鎖して鉄の流通を止めたのだった。さらに、「北部九州+出雲連合」は、淡路島に鉄を流し、味方につけ、明石海峡を支配して、通せんぼうをしていたのだろう。

明石海峡の争奪戦

『播磨国風土記』(播磨国は兵庫県。淡路島の対岸)に興味深い記事が載っている。

 出雲神とアメノヒボコ(天日槍)が、播磨で戦っていたという。『日本書紀』に従えば、アメノヒボコは第10代崇神天皇、第11代垂仁天皇の時代の人だ。崇神天皇がヤマト建国の初代王と目されていて、アメノヒボコはヤマト黎明期、歴史時代の人なのだから、神と戦うのはおかしい。

 ただし、『播磨国風土記』は、朝廷に提出した原本を(おそらく複写して)手元に残しておいたものが今に伝わったものだ。要は、「8世紀の藤原政権のチェックを受ける前の原稿」なのだ。『日本書紀』の時代設定と矛盾するからといって、これを無視することはできない。

『播磨国風土記』の編者は、貴重な伝承を記録してくれたと思う。「出雲」はなぜ播磨に進出していたのか。そしてアメノヒボコと播磨で戦ったのはなぜか。説話の真相を知りたくなる。

 明石市の稲爪(いなづめ)神社に、興味深い伝承が残っている。推古天皇の時代(6世紀末から7世紀前半)、黒牛に乗った異国の鉄人が、日本を乗っ取ろうと8000人の兵を率いて押し寄せてきた。勅命を承けた伊予の小千益躬(おちのますみ)は、数百艘の軍団を率いて九州に赴いた。そこで小千益躬は、負けた振りをして水先案内を買って出て、敵を明石まで誘い込み、殲滅戦を行ったというのだ。よく似た話は、石清水八幡宮の『八幡愚童記』にも載っている。

 史学者の多くは神社伝承を否定的に捉えるが、小千益躬のとった策は、じつに理にかなっている。

 瀬戸内海は外海への出口がどこもかしこも狭い。そのうえ多島海だから、複雑で速い潮流を生み出す。水先案内人がいなければ、安全な航海はむずかしい。関門海峡から明石海峡の間は、海の民の楽園だったが、よその人間から観れば、魔界なのだ。小千益躬は、敵を「海人の庭」に誘い込んで、狭い明石海峡に蓋をしてしまったのだろう。

 そこで、『播磨国風土記』の不思議な話が思い出される。なぜ、出雲神とアメノヒボコは、播磨で戦ったのだろう。それは、明石海峡の争奪戦だったのではあるまいか。

 アメノヒボコが拠点を造った但馬や丹波(丹後)は、ヤマト建国の直前、多くの文物を畿内や近江、東海にもたらしていた。彼らはヤマト建国への道すじを造っていたのだ。

 拙著『蘇我氏の正体』(新潮文庫)の中で述べたとおり、アメノヒボコは、ヤマト建国のきっかけを作った人だ。ヤマトと手を組み播磨を攻め、明石海峡の制海権を奪おうとしたのだろう。ヤマトにとって最大の敵は、淡路島と手を結んでいた出雲であり、播磨で出雲神とアメノヒボコが戦ったという『播磨国風土記』の物語は、俄然信憑性を増してくる。明石海峡をヤマトが奪ったから、出雲と吉備がヤマトに靡(なび)いたのだろう。

「もともと敵の土地」

 国生み神話の最初に生まれた淤能碁呂島は架空だが、次に淡路島が登場したのは、ヤマト建国の最初の一歩が、「淡路島を奪い、明石海峡の制海権を獲得すること」だったからだろう。

 ヤマトは西側からの攻撃にすこぶる強い天然の要害だが、瀬戸内海を自由に通れなければ、建国の意味はなく、だからこそ、「まずは淡路島(明石海峡)」だったのだ。

 その一方で、建国後のヤマト政権は、淡路島の発展を望まなかった。その様子をよく示しているのが、明石のすぐ東隣、神戸市垂水区にそびえる、五色塚古墳だ。5世紀初頭(古墳時代前期後半)に造られた前方後円墳で、全長194メートル、同時代の大王(天皇)の墳墓と遜色ない巨大古墳だった。現在葺石(ふきいし)が復元され、淡路島からもよく見える。渋い銀色に輝き、前方部は、まっすぐ淡路島を指し貫いている。おそらく、ヤマト政権と通じるこの土地の首長が、淡路島を「監視し牽制し、威圧する」目的で造ったのだろう。かたや淡路島には、巨大前方後円墳が存在しない。

 多くの万葉歌人は、瀬戸内海からヤマトに帰ってくるとき、淡路島を通りすぎたところで、「ようやく故郷に帰ってきた」と、歌にした。ヤマトの山並みが目の前に広がり、瀬戸内海の海人の楽園(魔界)を通りすぎたという安堵感が湧きあがったからだろう。

 いわゆる「畿内」は、明石海峡の東側であり、淡路島は除外されていた。それは、ヤマト政権にとって、淡路島が「もともと敵の土地」という感覚があったからだろう。

 ヤマトが建国され、ヤマトや河内(大阪)が栄えはじめるのは、このような淡路島の不運な歴史と無縁ではなかったのだ。ヤマト政権にとって重要な通り道だからこそ、発展を許されなかった。

 そして淡路島は、ヤマトから西側の、日の沈む「終焉の地」と見なされ、淳仁天皇や早良親王ら、高貴な罪人が流されるようになったのである。

 今回の取材旅行の最大の収穫は、淡路島と明石海峡の意味を知ったことにある。古代のヤマトと大阪の繁栄は、淡路島の息の根を止めることで成り立っていたのだ。

関裕二
1959年千葉県生れ。仏教美術に魅せられ日本古代史を研究。『藤原氏の正体』『蘇我氏の正体』『物部氏の正体』(以上、新潮文庫)、『伊勢神宮の暗号』(講談社)、『天皇名の暗号』(芸文社)、『「死の国」熊野と巡礼の道: 古代史謎解き紀行』 (新潮文庫)など著書多数。最新刊に『神武天皇 vs. 卑弥呼 ヤマト建国を推理する』(新潮新書)、『古代日本人と朝鮮半島』(PHP文庫)がある。