前人未到“1001登板” 岩瀬仁紀に付きまとうあの“敗戦”

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 中日・岩瀬仁紀(43)がプロ野球史上初めて1千試合登板を果たした。メジャーリーグでは十指に余る先人が達成済みだが、試合数の少ない我が国においては空前絶後の記録である。

「たしかに大記録ではありますが……正直言って、地味な存在ですよね」

 とスポーツ紙デスクが苦笑する。

 愛知県生まれの岩瀬は、県立西尾東高時代は甲子園にも出ず、無名選手だった。大学は愛知大である。

「大学時代に、ナゴヤ球場で試合前に行われたスピードガンコンテストで140キロ超の速球を投げて、スカウトの目に留まった」

 その後、NTT東海を経て、逆指名で中日に入団。以来20年間、中日一筋だ。というか、生まれてこのかた愛知を出ていない。どうにも“ご当地ヒーロー”感が否めないわけだが、岩瀬の名を全国に知らしめたエピソードがふたつある。

 ひとつは、2007年の日本シリーズ第5戦、パーフェクトピッチングをしていた山井大介に代わって9回に登板した一件だ。

「落合監督の采配に賛否が巻き起こりましたね。山井も凄いですが、“日本シリーズという大舞台で完全試合を継投した投手”なんてもう二度と出てこないでしょう。後に落合さんが“岩瀬はキツかっただろう”と語ったように、誰も経験したことがない物凄いプレッシャーだったはずです」

 もうひとつは、まさかの4位に終わった08年北京五輪。中日入団当時の監督だった恩師、星野仙一氏が采配を振った大会だが、

「予選リーグで2度救援に失敗した岩瀬を、星野監督は準決勝の同点の場面でも起用。結果、岩瀬は三たび打ち込まれ、チームは決勝に進めなかったのです」

 1千試合登板を果たした翌日の9月29日、岩瀬は“1001”試合目のマウンドに立った。

「切りのよい1千登板で引退すると思ったのですが、球団側が“恩師である星野センイチさんへのオマージュ”とお膳立てしたのです。でも、“岩瀬と星野”といえば、北京の悪夢。花道で“黒歴史”を思い出させてしまいました」

 岩瀬仁紀――記録だけでなく、記憶にも残る不世出の大投手。良くも悪くも。

週刊新潮 2018年10月11日号掲載

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