俺は幼い頃から練習を積み重ねてきた――「山本“KID”徳郁さん」続けた挑戦(墓碑銘)

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 癌を告白し、闘病の様子が報じられた直後の訃報だった。山本“KID”徳郁さんの格闘家人生を、週刊新潮コラム「墓碑銘」で振り返る。

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 格闘家の山本“KID(キッド)”徳郁(のりふみ)さんの身長は163センチ、体重は60キロ台前半と小柄。子供のようだとつけられたあだ名がKIDだ。レスリング選手から総合格闘家への転身に成功した。

 2004年の大みそか、K―1中量級のスター魔裟斗(まさと)と初対決。この試合はパンチやキックなどの打撃技だけを使うK―1ルールで、下馬評は魔裟斗が断然優勢。しかし、KIDが放った左ストレートを浴び魔裟斗が崩れ落ちた。興奮に包まれる会場。立ち直った魔裟斗の蹴りがKIDの急所に当たるアクシデントも起きた。

 KIDへの取材経験があり、この試合も観戦していた大谷泰顕さんは振り返る。

「急所が恐ろしく痛いはずなのにKIDの表情は苦悶よりも、さっさと試合を再開しろという凄みがあった。強い相手との勝負をこんな形では終われないという気迫、闘争心が伝わってきた」

 試合は再開、KIDは判定で敗れる。瞬間最高視聴率31・6%を記録、語り草になっている激闘である。

 KIDは1977年、神奈川県生まれ。父親の山本郁榮(いくえい)さんは72年のミュンヘン五輪レスリング代表、姉の美憂(みゆう)さん、妹の聖子さんはともに世界選手権で何度も優勝している。ちなみに聖子さんはダルビッシュ有投手の再婚相手。母親の憲子さんもレスリングの審判員として活躍した。

 レスリング選手として活躍、70年に木口道場を開いた木口宣昭さんは述懐する。

「郁榮さんは大学時代からの友人で子供は3人とも道場に来ました。徳郁は5歳の頃からです。体を動かすのが大好きでやんちゃ。負けん気が強く食らいついて攻めていく。道場訓は“清い心、強い体、良い頭”です。良い頭といっても状況を判断する力ですね。徳郁の精神面の強さに、この道場訓が影響していれば嬉しい。平常心で自分のペースで勝つ。小学生ですでに全国で傑出していました」

 1年間の猛勉強で難関の桐蔭学園中学に合格した集中力も見せた。高校でアメリカへ渡りレスリングに没頭。帰国後は山梨学院大学で五輪を目指す。学生王者に輝くが、2000年のシドニー五輪に向けた全日本選手権は準優勝にとどまった。

 総合格闘技へ方向を転換、すぐに頭角を現す。コメントも大胆不敵で「神の子」はKIDの代名詞になった。

「驕(おご)りや自信過剰ではなくて父親を尊敬して出た言葉、自分は格闘の神様の子供という意味です」(木口さん)

 負けた試合の映像を何度も見ては徹底的に分析した。

 人気絶頂の06年、プロ活動を休止して北京五輪に挑むと発表。時に29歳で、年間1億円は軽く稼いでいた。

 日本レスリング協会のホームページの編集長、樋口郁夫さんは思い起こす。

「レスリングの選手時代から6年以上ブランクもあり、そんなに甘いものではないとの見方が多かったのです」

 五輪挑戦は注目を浴びた。

「山本家最大の目標は五輪でした。五輪に女子レスリングが採用されたのは04年のアテネから。実力のピークとずれて、姉妹も出場を逃しています」(大谷さん)

 全日本選手権の2回戦で敗れ右肘を脱臼、万事休す。

「それでも挑戦して良かった、一生悔いを残すところだった、と後に話してくれました」(樋口さん)

 総合格闘技に戻るが靭帯断裂や頸椎ヘルニアなど故障に悩む。15年の大みそかに魔裟斗と11年ぶりに対戦し判定負け。これが最後の試合だ。東京などにジムを開き指導。美憂さんが16年に総合格闘技のRIZINに参戦すると練習を見守る。

 モデルと04年に結婚、1男1女が誕生するが09年に離婚。14年に9歳年下の一般女性と良縁に恵まれ、2女を授かる。子煩悩だった。

 9月18日、41歳で逝去。

 8月26日に癌を告白したばかり。2年前に胃癌が見つかり、最近はグアムで闘病していた。ファンや仲間に心配させたくないと日本を離れたとはKIDらしい。

週刊新潮 2018年10月4日号掲載

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