最強空手家を勝たせないよう介入した 極真創始者・大山倍達

スポーツ新潮45 2017年6月号掲載

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黒澤浩樹 写真提供:株式会社夢現舎

 あまりの強さに「超人」と言われた空手家、黒澤浩樹が今年3月、54歳という若さで亡くなった。

 試合中に骨が露出しても闘い続けるそのスタイルは「格闘機械」の異名を取り、極真空手引退後はK-1などプロ格闘技にも参戦したことで知られる。

 極真空手史上に残る名選手だが、全日本選手権大会での優勝はデビュー戦の1回のみ。

 記録より記憶に残る選手と言われたが、黒澤の鮮烈なデビューを目撃し、彼と最も近かった作家・小島一志氏は、発売中の月刊誌「新潮45」6月号「最強空手家はいかに逝ったか」で衝撃の事実を明かした。

 なんと極真空手の創始者・大山倍達が、試合で黒澤を勝たせないよう審判に介入していたというのだ――。

 1984年11月3日。黒澤浩樹は第16回全日本選手権に彗星のごとく現れた。1回戦から並み居る極真の名選手たちを打ち破り「とんでもない奴があらわれた」と話題になった。下段蹴りで巨漢選手を戦闘不能に追い込み、準決勝では闘将・木元正資を一本勝ちで下す。決勝戦の相手は総本部(池袋)の内弟子で大山倍達が次期王者と期待する竹山晴友。黒澤の蹴りを必死で耐えた竹山も倒れずにいることが精一杯。黒澤は圧倒的な判定で勝利し、初出場にして初優勝を飾った。しかし、極真空手の総本部ではなく城西支部の所属であり、全国的に無名だった黒澤の活躍に、大山倍達は眉を顰めた。(下記、「新潮45」6月号より引用)

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大山倍達の逆鱗に触れた

「一介の支部所属」の初めて名前を聞く選手が優勝したことに、大山倍達はとてつもない不快感を抱いたという。黒澤が所属していた極真会館城西支部は俗に「極真城西」「チャンピオン製造工場」として門下生たちの団結力の強さ、選手層の圧倒的厚さで知られており、中でも黒澤は抜きん出た存在だったが、まだ大山倍達の耳に届くほどではなかった。

 生前の大山倍達は私にこう語った。

「ベテラン勢も全盛期を過ぎて、後は竹山と松井章圭(現・極真会館館長)が極真の屋台骨を背負ってくれればね、前途洋々だと思っていたよ。彼らは美しい空手、華麗なる空手の実践者だからね。これからの極真は華麗でなければならないよ。なのに昔に戻ったようなパワーだけの黒澤が優勝するんだからね。それも本部じゃない選手だから、嫌だったよ。極真空手はここ、池袋の総本部がその威信を担ってきたのだからね。それなのに、あんな無愛想な坊主に人気が出るなんて思わなかった。黒澤くらいだよ、私と会っても眼を逸らさないのは」

 後年、私は拙著『黒澤浩樹 最後の超人伝説』を大山に進呈するため総本部を訪れた。受け取るときの愛想は良かったが、私が帰った後、大山は本を「こんなもん!」と言いながらゴミ箱に投げ捨てたという。後に智弥子夫人から聞き、今や笑い話になった実話である。

■前代未聞の“介入”

 翌年の第17回全日本選手権、黒澤の前に立ちふさがったのは「大山の息子」と言われた松井章圭だった。決勝で相見えた2人だが、延長戦にもつれると、黒澤の下段蹴りで松井の大腿が持たないと大山は踏み、彼の「意向」によって旗は松井に揚がった。

 もっとも、本来ならばこの決勝戦は「あり得ない試合」だった。4回戦の時点で松井を勝たせたい大山は突然「審判団総入替え」を命じ、暗黙で自分の心を忖度出来る支部長たちを新たに揃え、ルール無視の再延長で松井を勝者にしたのだ。当然、決勝の黒澤戦を見据えた対策以外の何ものでもない。

 自分に忠実な“新世代”を勝たせたい大山にとって、黒澤の存在は邪魔でしかない。その後の大会でも「態度が悪い」と大山の目に映っただけで反則負けを取られそうになるなど、ほとんど言いがかりのような仕打ちを受け、大山の包囲網がひとつひとつ黒澤の空手から手足を奪っていった。黒澤は初出場以降、全日本選手権では優勝できなかった。私はもし大山に嫌われていなかったら3連覇、4連覇していたと確信している。

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他にも『新潮45』6月号で小島氏は、試合場を離れた黒澤浩樹の素顔を伝えている。