伝説の番組「イカ天」30周年で“平成最後のライブ”開催 萩原健太がウラ話を語る

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2カ月だけの穴埋め番組?

萩原:最初に言っておくとね、みなさん、審査委員長と言ってくれるけど、ただの審査員だったんです。たまたま審査員席の端っこにいて、なんだか審査の総括みたいなことを言うような役回りになっただけなんです。ボクは、勤めていた早川書房を辞めたのが81年だから、当時は音楽評論家といっても10年も経っていないペーペーでした。湯川れい子さん(82)というベテランもいる中で、ボクが委員長なんて、おこがましいじゃないですか。それに毎週土曜の深夜を拘束されるのなんて堪らないと思って、出演を断っていたくらいなんです。あの番組、4月までの穴埋め番組と思っていましたしね。

――穴埋め番組?

萩原:そう、勝手にそう思ってた。番組がスタートする直前に、スタッフから「今週から始まるので、お願いします」と言われて、仕方なくというのが正直なところでした。まさか、あんなに盛り上がるとは思いませんでしたよ。

――この番組からメジャーデビューしたバンドは数多い。FLYING KIDS、BEGIN、たま、JITTERIN'JINN、BLANKEY JET CITY、マルコシアス・バンプ、カブキロックス、人間椅子、宮尾すすむと日本の社長……。彼らのアマチュア時代を見ることができたのだ。また、みうらじゅん(60)やマンガ家・喜国雅彦(59)らで組んだバンド「大島渚」も人気だった。“イカ天”は当初、TBSとCBC(中部日本放送)のみ2局ネットで始まった。それが人気が上がるにつれてネット局は増え、同年10月には11局、最終的には16局とほぼ全国的で放送されるまでに。深夜にもかかわらず、瞬間最高視聴率が7.9%に達することもあったという。この年は新語・流行語大賞の流行語部門・大衆賞も受賞した。

萩原:でも大阪では最後まで放送されなかったんです。当時は「板東英二のわがままミッドナイト」(毎日放送)がすごい人気で、イカ天は流れなかったんです。だから大阪では誰もボクのことを知らないのが有難かった。もちろんイカ天で名前も顔も売れたのは感謝しているんですが、レコード店でも一般に人に話しかけられるようになっちゃってね、「このレコード、どうですか?」とか、店内で言わせるなよ、なんてこともありましたから。

――そして、90年元旦(放送は翌2日)には、イカ天に出演したバンドから厳選された21組による日本武道館でのライブ「輝く!日本イカ天大賞」も開催された。

萩原:あれはね、当時TBSでは大晦日に日本武道館で「輝く!日本レコード大賞」を放送していたんですよ。そのセットをほぼそのまま使わせてもらったの。それとね、日本武道館の正月は、例年ならジャニーズが押さえていたんだけど、このときは昭和天皇が崩御して1年経っていないということでキャンセルしたらしいんですよ。だから、イカ天で使えるようになったと、当時、聞きました。いくら番組の人気があったからといって、正月の武道館は簡単には押さえられないもの。武道館でボクは「これは初夢みたいなものだから、みんな頑張ってほしい」みたいな挨拶をしたんだけど、みんなこの勢いはまだまだ続くって感じだったな……。

――萩原氏はじめ初代審査員たちは、90年3月を以て番組を離れる。新たな審査員たちによって番組は続けられるが、急激に人気を落としていった。番組は90年12月29日を以て終了する。

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