“証拠は私自身”と八百長を暴露 中盆と呼ばれた元小結「板井圭介」氏(墓碑銘)

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 現役時代もさることながら、角界のタブーに切り込んだ引退後の姿が、人々の脳裏に残る。週刊新潮のコラム「墓碑銘」から、板井圭介氏の生涯を振り返る。

 大相撲の元小結、板井圭介氏は、物議を醸した人である。引退後の2000年、日本外国特派員協会の講演で八百長の存在を明言、自らの関与も認めたのだ。

 この席で、関脇当時の曙に40万円で自分から星を売ったと告白。当時の横綱、大関で八百長をしなかったのは大乃国ぐらいとも語った。さらに疑惑の現役力士の名を約20名も挙げた。

 日本相撲協会はこれを全面的に否定。板井氏に発言の撤回と謝罪を求めた。だが法的措置は取っていない。

 相撲ジャーナリストの中澤潔氏は当時を振り返る。

「八百長という言葉がタブーの角界です。正義漢ぶって今頃何を言うのだと受け止められました」

 1956年、大分県臼杵(うすき)生まれ。大分県立水産高校(現・県立海洋科学高校)に進むと相撲で頭角を現す。日本大学をはじめ相撲の強豪校からスカウトが訪れ、大相撲からも熱心に誘われたが、実業団の黒崎窯業(現・黒崎播磨)へ。働きながら、国体で優勝も果たしている。

 大鳴戸部屋に入門。78年秋場所で初土俵。序ノ口、序二段、三段目と全勝優勝し、当時最多の26連勝を記録した。79年秋場所に新十両、80年秋場所で新入幕とスピード昇進を果たした。

「社会人経験がある異色の力士。実業団で成果を出したのに幕下付け出しが認められず前相撲から取ることになった。ならば勝ってやると開き直っていた」(当時を知る相撲担当記者)

「突き、押しで攻める相撲が記憶に残っています。それだけに後年の評価は残念でした」(相撲ジャーナリストの杉山邦博氏)

 板井氏によれば、八百長との最初のかかわりは、十両に定着させようと親方が根回しをしたものだった。ガチンコ(真剣勝負)で十分強いのに八百長の仲間に組み込まれていく。互助により地位を安定させることができ、ケガの心配も減る。板井氏は小遣い稼ぎに星を売ったかと思えば、頼ってくる力士の希望に応じた。

「大相撲」誌の元編集長、三宅充氏は言う。

「張り手が多いぐらいで、あっけない相撲。つまらなかった印象があります」

 八百長の星の貸し借りは複雑だ。取組を見渡し調整する「中盆(なかぼん)」の役目を板井氏が担うようになる。

 91年秋場所で引退。年寄名跡の春日山を襲名するはずが、相撲協会に認められず廃業を余儀なくされた。

「協会に残しておくと面倒だと避けられ、事実上の追放でした」(先の記者)

 長年、板井氏を取材してきたノンフィクションライターの武田頼政氏は言う。

「八百長をした人ではありますが、角界のことを思っていました。罪深いことだと気づいて発言したのです。世間ずれしているところはあるけれども、欲まみれの人ではありません。頼まれたら断れない性格で人がいいんです。そして相撲は強い。実力が伴わなければ八百長の調整役はできません」

 八百長を告発する「週刊現代」の記事を巡る裁判では、2008年に自ら八百長を行ったことを証言した。

 本誌(「週刊新潮」)の報道がもとで明るみに出た大相撲力士による野球賭博の捜査過程で、力士が携帯電話のメールで八百長の相談をしていたと判明。動かぬ証拠で、八百長の存在は11年に大きく報じられた。板井氏の告白もようやく報われたようなものだ。

 仕事は転々。離婚したが、子供とは会っていた。

「相撲はそれほど熱心に見ていません。サッカーに夢中でヨーロッパの試合も見て実に詳しい。人工透析をしているのに好物の稲荷寿司を買ってきてと、私に頼んだりしましたね。昨年会った時には歩くのもしんどそうでした」(武田氏)

 8月14日、人工透析を受けるための病院に現れず、病院が親類に連絡。親類に頼まれた元付け人が東京墨田区の自宅を訪ねたところ、台所で倒れていた。享年62。事件性はない。蛇口から水が流れ続けていたという。

週刊新潮 2018年8月30日号掲載

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