アントニオ猪木と北朝鮮訪問の原点 平壌市民38万人を集めたプロレス興行“秘話”

スポーツ

  • ブックマーク

 アントニオ猪木議員(75)といえば、北朝鮮と独自のパイプを持つことで知られる。これまで幾度も訪朝してきたその原点は、38万人の平壌市民を集めたプロレス興行にある。裏方として、当時の興行を成功させた元新日本プロレス取締役の永島勝司氏は、かつて週刊新潮の取材にその裏側を明かしている。

 日朝首脳の会談開催も取り沙汰される現在。改めて振り返りたい、日本と北朝鮮を繋いだ稀有なイベントの秘話である(以下は2014年1月30日号掲載のもの)。

 ***

 1月16日、猪木は28回目の訪朝を終え、帰国しました。彼は、昨年11月初めに訪朝した際、張成沢国防副委員長(国家体育指導委員長)と面会している。その翌月、張が粛清されたのは、ご承知の通りです。それから2カ月しか経っていないのに、なぜ再び訪朝したのか? 正直言って、北と早急に話し合わねばならないテーマもないだろう。長年、猪木を見てきた私に言わせれば、彼独特のパフォーマンスだね。張が殺され、猪木と北のパイプがなくなったとの見方は少なくない。このタイミングで訪朝すれば、実際、北との親密な関係は変わらず続いていることを誇示できるからね。

 一方、北は昨年末、金正恩第一書記の肝煎りで馬息嶺(マシクリョン)スキー場を完成させています。今回、猪木はここを訪れ、向こうで大々的に報じられていた。北は今後、このスキー場を観光特区にし、外貨を稼ごうとしている。平壌では、我々がプロレスをやって以来、猪木は誰もが知る日本人だからね。彼を呼んだ最大の目的は、スキー場の宣伝に使うためじゃないかな。

――永島勝司氏は1966年、東京スポーツに入社。プロレス担当記者時代に猪木氏と親しくなり、新日本プロレスへ転じた。その後、広報、プロデューサーを経て取締役企画部長に就任し、「猪木の参謀」と言われた人物である。永島氏自身、94年以来、訪朝歴は15回に上る。

 猪木が北に興味を持ったのは94年の初夏でした。「北朝鮮で生まれた力道山のために平壌に殿堂を作りたい」と言い出してね。この時、すでにロシアやイラクで興行をやっていたので、大して驚きはしませんでした。そこからは朝鮮総連に人脈のある人を介して話がトントン拍子に進み、私と猪木はその年の7月に初めて平壌へ行くことになった。ところが、北京まで行ったものの、金日成主席が亡くなり一旦延期に。9月にようやく実現しました。

 この時、私と猪木が会ったのが、朝鮮アジア太平洋平和委員会委員長の金容淳(キムヨンスン)書記(当時)です。北の偉い人を前にして私は少し緊張していましたが、猪木は違った。ふと彼が「共和国のミサイルは日本に向けて発射準備に入っていると言われているが本当か」と言い出した。それに対し、金容淳は「日本が悪いことをしなければ撃つことはない」と答えた。すかさず猪木は「じゃあ、日本の方に向いているんだ」と切り返すと、2人はガハガハ笑い始めたのです。これで空気が一変してね。それと、猪木も金容淳も糖尿病なんですが、猪木が「風呂に水を張ってザブンと入れば、酒を飲んだって大丈夫だ」と言うと、金容淳も「そうなのか!」と楽しそうに答え、10年来の友人みたいになりました。

 こちらは予定通り、力道山の殿堂を作るつもりでしたが、金容淳が「プロレスを(北朝鮮の)国民に見せることはできないか」と聞いてきた。すると、猪木はすぐに私の方を見て「やるよな?」と言わんばかりの表情をしたので、ついつい私も小さく「うん」と頷いてしまった。それでプロレスをやることになったというわけです。

経費は8千万円

 その時は、平壌市内など色々な場所を案内されました。中でも一番印象的だったのは、金日成の遺体が安置されている錦繍山記念宮殿に連れていかれたこと。亡くなって2カ月しか経っていないから、日本人で彼の遺体を見たのは私と猪木が最初かもしれません。

 遺体が安置されている廟に入るまでに、3回も消毒させられたことには、とにかく驚きましたね。ゲートを通る度に、プシューツと霧状の液体が噴射されるんだけど、あれで洋服に付いた菌が全部除去されるのだとか。その後、花に囲まれ、透明のケースで覆われた遺体の周りを1周しました。私も猪木も「スゲエなぁ」と咳いていた。

――こうしてプロレス興行は、95年4月28日、29日の2日間に亘って開催されることになった。イベントの正式名称は「平和のための平壌国際体育・文化祝典」。会場は、平壌の綾羅島にあるメーデースタジアムである。

 イベント開催までの7カ月間は、1カ月に1回のぺースで平壌へ打ち合わせに行きました。私のカウンターパートは金容淳の下にいた李種革(リジョンヒョク)と現在、IOC(国際オリンピック委員会)委員の張雄(チャンウン)の2人。ただ、猪木は打ち合わせに参加するというわけではなかった。イベント前にプロレスがどういうものか知ってもらうため、テレビでプロレスの映像を流してもらうなどしていた。それもあって、朝、猪木が平壌市内を1人でランニングしていると結構、注目されてね。“走る広告塔”みたいなものでした。

 北からは一銭の資金提供もありませんでした。報酬も一切なし。イベント前に金容淳から「将軍様からのお土産」として、金正日のサイン入り青磁の壺を貰ったくらいですね。

 何しろ、イベントの時、向こうの厚意でビデオを撮ってもらったが、そのテープ代を請求されたほどです。それくらい、あの国はケチだった。ですから、お金の工面には一番苦労しましたね。結局、北海道の朝銀から2億円借りましたが、選手のギャラや渡航費用など、総額8千万円の経費がかかりました。

 残りのカネは、新日本プロレスの運転資金として使った。しかし、猪木はカネのことにはノータッチ。私が何とかして返済するしかありません。そこで、興行から半年くらい後、新日とUWFの対抗戦をやることにしたのです。これが大当たりし、一晩で3億円くらい儲かって、2億円も一括して返済することができました。

橋本真也も佐々木健介も嫌がった

 当然、向こうにはプロレスのリングもありませんから、丸ごと新潟港から万景峰号で運びました。特に、メーデースタジアムは天然芝なので、それを傷めないよう全面にラワン板を敷くのが大変だった。浜松の業者に頼んで、ラワン板だけで2千万円もしました。

 その後、聞いた話では、そのラワン板は、興行が終わると、平壌市内の劇場やサーカス場の補修に使われたそうですよ。

 北が唯一、用意してくれたのがスタジアムのオーロラビジョン。「プロレスを全ての席から見るにはオーロラビジョンが必要だ」と話したら、その日から5日後にはヨーロッパから輸入して、突貫工事で取り付けてしまったのです。

 あと北に誰を連れて行くか、人選も手間取った。新日本プロレスのメンバーは、皆、嫌がっちゃってね。橋本真也も佐々木健介も、初めは「人質なんかに取られたら日本に帰れなくなる」と言っていた。その上、アジア人がアメリカ人をやっつけるところを見たいわけだから、イベントにはアメリカ人のレスラーを呼ばねぱならなかった。

 金容淳からは「アメリカのスターを連れて来てほしい」というリクエストがあった。恐らく、これは金正日の指示だと思うんだよね。具体的には、向こうからマイケル・ジョーダンやマドンナの名前が挙がった。しかし、我々にはそんな大物を呼べる伝手(つて)はない。そこで、ボクシングのモハメド・アリを呼ぶことにしたのです。

 76年に猪木とアリが対戦して以来、没交渉でしたが、米国のプロレス団体WCWのE・ビショフ氏の仲介もあって、2人は再会しました。

深夜のノロ撃ち

 アリはパーキンソン病で会話できなくなっていたし、北のこともよく知らない。なかなか首を縦に振らなかった。でも、3回目の交渉だったかな、アリが夫婦で宿泊していたニューヨークのホテルまで行くと、ついに夫婦で参加してくれることになった。その瞬間、猪木とアリは抱き合っていた。考えてみれば、猪木は特にうるさく説得したわけじゃないから、アリは猪木との友情で参加することにしたのでしょう。ギャラは1千万円。アリにしてはかなり安かったと思います。

――イベントに参加したプロレスラーは約30名。メーンイベントは、猪vsリック・フレアー戦であった。このほか、「帰ってこいよ」で知られる松村和子らミュージシャンも駆けつけた。1日目、2日目それぞれ19万人、計38万人の平壌市民が観戦したという。この数字は、プロレス興行の世界最多観客数と言われている。

 初日は女子プロレスが大ウケ。逆に新日のプロレスはあまり盛り上がらなかった。猪木も「女に負けたな」と不満そうでした。でも、その日、一番盛り上がったのは、VIP席にいたアリが紹介された時でした。会場が大いに沸いて、彼の偉大さを感じたね。2日目は、むろん大トリの猪木vsフレアー戦。猪木は当時、52歳でとっくにレスラーとしてのピークは過ぎていた。それでも、あれだけ観客を喜ばせたんだから大したものです。

 私自身は、一度も会うことはありませんでしたが、常に金正日の存在は感じていました。例えば、準備段階で私が何か李種革に提案すると、大体「将軍様は全てご承知です」と応えた。それは、金正日に私の言葉が逐一、報告されていたからでしょうね。

 イベントの前夜には、こんなことがありました。夜の12時くらい、突如、労働党の幹部が黒塗りの車で、我々が宿泊していた高麗ホテルに現れた。そして、「猪木さんにお話がある。これからノロ(シカ)を撃ちに行きましょう」と。翌日はイベントだし、突然の誘いに驚いた。心配なので「僕も行きます」と言ったものの、「いや、猪木さんお一人で」と言われました。猪木は車に乗せられ、平壌郊外まで出かけてしまったのです。

 私は心配になって、ホテルで酒をガブガブ飲んで待っていた。そうしたら深夜の3時くらいかな、猪木が無事帰って来ました。聞けば、確かにノロ撃ちはしたという。でも、奇妙だったのは、猪木がノロ撃ちをしていると、遠くに1軒だけ煌々と灯りのついた屋敷があって、人影も見えたような気がしたというのです。猪木は、それが金正日だったのだろうと言っていた。つまり、金正日は猪木を間近で見たくて、ノロ撃ちに誘ったのでしょう。

計算高い男

 イベント初日も金正日の姿を探したけど、見つかりませんでした。その日、私と猪木は会場を早めに引き揚げた。関係者口から出ようとすると、軍隊や警官らしき人がズラリと並んで、誰かを見送っているのが分かりました。近くにいた関係者に「これか?」と親指を立て、金正日かどうか確一認しようとした。が、彼らはニヤッと笑うだけでした。あれは、きっと金正日だったと思います。

 興行が終わった翌日には、「大夜会」といって、金日成広場でダンスパーティーが開催されました。その時、最後の挨拶で金容淳が「今回、猪木さんが大活躍してくれた。そして、たった1人の日本人が陰で全部やってくれた」と私のことを褒めてくれた。あの時は、すごく嬉しかったな。

――38万人の平壌市民を集めた初のプロレス興行に、金正日も満足したはずである。猪木氏は、これを機に北から信頼され、その後も訪朝するようになった。もっとも、昨年11月の訪朝は参院の許可なしに強行。その後、30日の登院停止処分を下されるなど、独断専行で日朝関係を混乱させているとの指摘も少なくない。

 当時、猪木はスポーツ平和党の参院議員でした。ところが、同じ95年7月の参院選で落選。それでも、北は一度信用すると、とことん付き合う国です。たとえ議員バッジを外そうと、猪木との付き合いは続けた。

 あの頃、彼はビジネスにも目が向いていたね。興行が終わってすぐ後に、韓国から北のハイウェイに、発電機を設置して電灯をつけたこともあった。あっちはレアメタルが採れるので、鉱山にも行きました。松茸やフグの貿易を仕切ろうとしたこともあります。ですが、どれも実現には至らず、ビジネスとして大きな金が入ったことはないでしょう。

 猪木は先日訪朝した際、北から今夏、私がやった95年の時よりさらに大きな規模のイベントをやりたいと言われたそうです。しかし、当時と違って、日本は現在、北に経済制裁を行っている。そんな中、北で行うイベントのために資金を工面するのは至難の業。加えて、裏で仕切れる者もなかなか見当たらない。今のところ、95年と同じようにやるのは厳しいのではないか。

 猪木は、ああ見えて、意外と計算高い男ですよ。自分が北に利用されていることは承知の上だし、日本政府も自分を利用すればいいと思っているはずです。

 北からどんなことを言われたか、肝心な話は公の場ではしません。口が堅い分、向こうからも信用されている。猪木だからといって、軽く見ない方がいいと思いますね。

週刊新潮 2014年1月30日号掲載