石原さとみVS綾瀬はるか 本当の「高嶺の花」はどっち?

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 男が描く高嶺の花と、女が描く高嶺の花はこうも違うのか。野島伸司脚本による日本テレビ「高嶺の花」での主人公・月島ももと、森下佳子脚本によるTBS「義母と娘のブルース」の主人公・岩木亜希子のことである。石原さとみと綾瀬はるかという、ともにトップクラスの人気を誇る女優の一騎打ちかのように、どちらもハイスペックで恋愛下手な女性の生き様と人間模様を描いている。しかし、そのヒロイン像は正反対だ。

 野島伸司は家柄・美貌・才能という先天的な要素によって、森下佳子はビジネス力とそれに伴う地位や威厳といった後天的な要素によって、ヒロインの非凡さを表現する。しかし最も違う点は、「高嶺の花」という他者からの評価とは真逆の、彼女たちの人間臭さの描き方ではないだろうか。

 石原さとみ演じるももは、しゃがれた低い声で早口に、高飛車に話す。立て膝で食卓につくなどガサツに振る舞い、高嶺の花たる自分をあえて無価値なもののように扱っているような役どころである。ドラマ内ではそれを人間味、恵まれた環境に生まれてしまった人間ゆえの哀しみととらえているふしがある。もっと言えば、こんなに嫌な女に見えるけれど、抑えようとしてもにじみ出る純粋さと高貴さこそを「高嶺の花」たるゆえんとして描いていると言いたげだ。しかし、ただ和服を着て花を活けているだけで、上品と言えるかというとはなはだ怪しい。現時点では気取り屋でカンに障る女にしか見えなかった。それは石原の演技力によるものか、演出のせいかは知る由もないし、言うだけ野暮というものだろう。

 一方の綾瀬はるか演じる亜希子は、常に飾り気のない眼鏡とまとめ髪、ビジネススーツである。足もとは就活生のようにシンプルでかかとの低いパンプス。言ってしまえば地味な姿であるのに、醸し出す迫力は並々ならぬものがある。ロボットのように抑揚のない低い声。土下座さえ、定規で測ったかのような角度とキレ。胸を張り常にまっすぐに伸びた背筋は高嶺の花というより貴乃花親方か、と見紛うほどである。まさに石原が出したかったであろう、抑制するほど際立つ凄みを体現していると感じる。

 翻って、亜希子の人間味というのは、だらしなさや欠点として描かれない。むしろ会社員としての優秀さが過ぎて、義理の娘へのご機嫌取りさえ宴会芸になるという滑稽さに表れる。従来のドラマであれば、仕事はできるが家事はとんでもなく苦手だったり、あるいは好きな相手にも仕事モードで接してしまう不器用さによって人間味を感じさせるキャリアウーマンが多かった。だが亜希子は、家事も夫とのコミュニケーションも淡々とこなしつつ、自慢の営業手腕を子育てに発揮しようと取り組む。そのきまじめで真剣な姿勢こそが人間味を生むという、逆説的な形で魅力を見せていると言えるのだ。

 果たして、より「高嶺の花」となる女優はどちらか。それはまさに言わぬが花というものであろうが、個人的には綾瀬に軍配を上げたい。美しく、愛される役柄の多かった彼女が、いまや全力で腹踊りをしている平成最後の夏。秘するが花、と出し惜しみする石原ではなく、はしたない真似をしても清潔感を失わない綾瀬の風格と度胸に、大輪の女優としての器を見たように思う。 

 2000年にフジテレビが「やまとなでしこ」で描いたのは、高嶺の花である女性と冴えない男性との運命的な出会い、そして真実の愛とは男性の年収や社会的地位には左右されないという恋愛観だった。その「やまとなでしこ」的な恋愛観を繰り返すかのような「高嶺の花」。既に織り込み済みのところから始める「義母と娘のブルース」。いずれも花盛りの女優を中心に、2018年ならではのストーリーをどう見せてくれるのか目が離せない。しかしながら実のところ、高嶺の花オブ高嶺の花は、イケメンかつ穏やかで家事が得意、しかも会社でも上司にかわいがられ、という亜希子の夫を演じる竹野内豊なのでは、という可能性は捨てきれないけれど。

(冨士海ネコ)

2018年7月26日掲載

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