トヨタ・現場の「オヤジ」たち 中卒副社長誕生秘話

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生まれた頃、育った頃、

 河合が生まれたのは1948年だ。トヨタは細々とトラックを作っていた地方企業に過ぎない。

 また、彼が育った昭和30年代前半は高度成長の少し前で、新幹線はもちろん走っていない。テレビの普及率は、1958年(昭和33年)が16%で、5年後の1963年(昭和38年)は91%。むろん白黒テレビである。地方ではNHKと民放が1局もしくは2局だけ。子どもたちの遊び場と言えば、田んぼや畑であり、野原であり、そして山や川だった。

【河合の話】

 おふくろは今、96歳。
「満、真面目に働け」と最近もまだ怒られる。

 親父は私が9歳の時に食道がんで亡くなったんですよ。終戦後、親父はトヨタの本社工場の修研チームで働いてました。修研とは作業に使う道具を修理したり、切削道具を研ぐチームのこと。トヨタにはトヨタ生産方式というものがあって、その一環で、以前はそれぞれの職人が「自分の道具は自分で研ぐ」と言っていたのを、副社長までやられた大野耐一さんがやめさせて、専門チームが研ぐ方式に変えたのです。

 僕が覚えているのは、トヨタ病院に入院していた親父を、おふくろと一緒に見舞いに行ったことです。4キロくらいある道のりを自転車でこいで行く。アップダウンがある道で、電灯もない砂利道をふたりで走って。車とすれ違うなんてことはないですよ。自動車なんてぜんぜん走ってない時代ですからね。

 親父が亡くなってからはおふくろが畑をやったり、勤めに出たりして生活しました。金持ちではなかったけれど、貧乏だと意識したことはなかった。あの頃の田舎では、誰もが似たような生活のレベルだった。

 小学校の時は、友だちに「学校終わったら、神社でソフトボールやるぞ」って遊んでばかりいた。お宮の広場に三角ベースを作ってやるんだけれど、ボールは1個か、せいぜい2個。山の中に飛んでいくと、日が暮れるまでみんなで探したもんです。バットだって1本しかなかった。折れると釘打ったり、テープ巻いたりして、修理していた。バットを直したりするのは得意だった。

 おふくろ方のおじいちゃんは大工で、僕はしょっちゅう遊びに行っていた。「満、欲しいなら、古くなったやつをなんでも持ってけ」と言うんで、かんな、のみ、のこぎりをもらってきて、その辺にあるもので、いろいろな道具をこしらえて遊んでいた。ゴーカートも自作しましたよ。ただし、動力はない。紡績工場で使っていた丸い木の輪っぱが沢山あったから、それをタイヤ代わりにして、山で切ってきた真っすぐなカシの棒を通して、上に木の台を載せて、坂道をだーっと走る。あれが最初に作った自動車だったな。

 遊びは大きな子もちっちゃな子もみんな一緒だ。ちっちゃい子が泣いてたら、「おい、ちょっと背負って、あやしてやれ」とか命令していた。子どもにとって兄弟の世話は仕事でしたよ。赤ん坊を背負って、バッターボックスに立ってた子もいたんだよ。

 みんなで助けあって、リーダーは小さい子を守って連れていくとか、そういう心配りというか気づかいがあった。チームワークで遊んだわけで、今でもうちの工場で、もっとも大切にしているのはチームワークです。それが大切なんです。厳しいだけ、過酷なだけじゃ、人間は仕事なんかしませんよ。職場にあたたかいものがあるから、過酷な仕事にも耐えていける。

トヨタの養成工

 さんざん遊んだ小学校時代の後、河合は地元の松平中学校に進む。ここでも「勉強はしなかった」。工作と遊びに徹していた。しかし、3年生になると進路を決めねばならない。1962年、彼が中学校3年生当時の高校進学率は64%で、大学への進学率は12・8%である(現在は高校進学率は98・1%、大学は57・3%)。当時はまだ、高校へ行かない生徒がクラスの4割近くいた。

【河合の話】

 勉強はしなかったから、そりゃ成績もよくはなかった。中学を出たら就職するつもりだった。だけど、おふくろは泣いて「満、とにかく高校だけは出てくれ」と。僕は寿司屋か大工だな、と思っていた。モノをつくるのが大好きだから、そういう仕事に就きたかったんだ。

 まあ、うちには妹が2人おったでしょう。オレが金を使って高校へ行くと、妹たちの分がなくなるとも思ったんで、働くと言ったんだ。

 あの頃、松平中学を卒業した人のうち、3割か4割は就職でした。大学なんて同級生150人中数えるぐらいしか行かなかった。だから僕も就職するのが当たり前で、肩身が狭いなんてちっとも思わんかった。

 だが、おふくろはずっと泣いてるし。どこか働きながら行けるところはないかと考えていて、はたと思いついたのがトヨタの養成工(トヨタ技能者養成所の通称)だった。トヨタなら親父が勤めていた会社だし、おふくろも許してくれるだろう、と。養成工は3年間で学科が半分で実習が半分、しかも給料をくれる。当時は高校卒の資格はなかった。いまはトヨタ工業学園って、ちゃんとした高校です。

 中学校の先生に「僕はトヨタの養成工に行きたい」と言ったんですよ。そうしたら「何を言っとる。お前みたいな勉強しよらんやつは絶対に行けん。あきらめろ」。

 確かに、トヨタの養成工って、難しいところなんですよ。そりゃ、僕が入った年はよくなかった。なんといっても、オレが入ったくらいだから。でも、その4~5年前まではすごくレベルが高かった。入ってから、通信課程で高校や大学の卒業資格を取るような人もいたんです。養成工の先輩たちは、愛知県でもトップクラスの高校に行くぐらいのレベルだったんだ。

「おまえみたいなやつが入れるわけがない」と先生に言われて、落ち込んだけれど、その日から徹夜で勉強して、試験の当日、一生懸命、答えを書いたら、通った。たぶん、下から数えた方が早いと思うよ。うん、びりっけつではなかったとは思うが、それに近い。

  ***

 河合が入所したのは1963年。東京オリンピックの前年である。当時、トヨタ技能者養成所は本社のなかにあった。同社の社長だったのは三井銀行から来た中川不器男。その次の社長が中興の祖と呼ばれ、アメリカの自動車殿堂に入った第5代、豊田英二である。

 養成所の生徒たちは社長や役員の顔をたまに見ながら通学し、集合教育を受けた後は本社工場で実習だった。一人前の戦力とはいかないまでも、半人前程度には会社に貢献していたのではないかという。

【河合の話】

 養成工(出身者はそう呼ぶ)に入ったのは15歳でした。

 当時の給料は、1年生で1500円だったかな(同年の大卒公務員の初任給は1万7100円)。3年生になると3000~3500円でした。賞与も出たから、15歳で、しかも半分しか働かない割には結構な額をもらっていたと思います。寮生と自宅からの通学生が半々でしたね。僕は最初は自転車、途中からオートバイを買って通学した。

 入所試験で「トヨタの車の名前を書け」という問題があって、書いたのはクラウンとコロナとパブリカ。カローラが出たのは僕が入社した1966年です。

 養成工では、工場の現場に入って、先輩たちがやっていた手作業を実際に体験するんです。中学を出てすぐの15歳でしょう。先輩たち作業者は誰もがおっかない感じでしたよ。特に鍛造の現場はね、もうコワかった。真っ赤に焼けた鉄を鍛造プレス機で打つ。

 鍛造で作るのは重要部品。エンジンのクランクシャフト、コンロッド(コネクティングロッド)、足回りのナックル、ミッションのギアなど。止まる、曲がる、走る、自動車の大事なところですよ。

 でも、当時の環境は最悪。先輩が扇風機に向かい、汗をだらだら流しながら、塩をなめて仕事をやってました。真っ赤になった棒材をかね(鉄)の箸でつかまえて、それをスタンプハンマーって、大きなハンマーで叩いたりして成形していました。それだけで、ああ、ここに来ちゃいかんと思った。

 組立、鍛造、鋳造、機械工場など、ひと通り見学をして、1年の終わりに希望を出す。鋳造、鍛造は暑いし、火の粉はぽんぽん飛んでくるし、とにかく怖い。自動車を作るというイメージではないんですよ。製鉄所みたいなものだから。鋳造は湯(溶けた鉄)で火花が出てるし、煤煙がひどくて中はまったく見えない。鍛造へ来ると、今度はばんばん音がすごい。プレスやハンマーで真っ赤な鉄を叩いてた。よし、オレはどんなことがあっても鋳造、鍛造だけは絶対行かないと決めた。

本気でやめたいと思った時

 1年生の最後、配属先の発表があるというので、講堂に行って並びました。180人の同学年がみんな集まってましたよ。クラスごとに「1番誰々、技術部自動車整備工」と発表される。技術部は人気が高かった。車の評価とか開発、整備、試作をやるし、テストドライバーになる人もいたからね。配属先は、成績もある程度は関係があったのだろうけれど、その人の適性かな、やっぱり。

 僕は第1希望が自動車整備工で、2番目が機械加工、ミッションなどを作る工場でした。3番目は組立工場かな。組立って、車を作ってる感じがする。鋳造と鍛造なんて、書くやつはいなかったと思うよ。考えることはみんな同じ。

 ひとつの部署に10人から12人くらい配属される。途中から「鍛造」配属がどんどん出てきて、5人くらいの名前が呼ばれた。僕の前に並んでいたウエダってやつが「鍛造工を命ずる」って言われたんで、僕は連続で同じ職場にはならないだろうと「よーし」と思って、にこっとしたんだよ。そうしたら、すぐに「河合満、鍛造工」って言われて……。

「えーっ」、もうしょげてしまって、ものも言えない。

 うちに帰ってすぐ、おふくろに「オレ、会社やめるわ」。そうしたら、おふくろが、「せっかく入ったのに、何でやめるんだ、やめることだけはダメ」とまた泣かれてね。でも、「やめる」と言い張った。

 そうしたら、死んだ親父の弟、つまり、おじさんがうちにやってきた。うちのおじさんもまた本社の機械工場にいたんですよ。おじさんが飛んできて、「おまえ、鍛造だからって絶望するな」って。

「満、何とか我慢して、頑張れ、そのうちにまたローテーションもあるから」と言われてね。おじさんだけでなく、死んだ親父の上司まで訪ねてくるんだよ。そうなると、考え直さざるを得ない。

 もし、自分がやめたら、この人たちに迷惑がかかる。どうしようか。

 わかった。やってやる。オレは鍛造に入る。こうなったらやけくそだ、と。それで鍛造で働くことに決めた。

 会社に入ってからも、「仕事、やめるぞ。オレは」って冗談で口に出したことは何度もあるよ。でも、本気でやめたいと口に出したのはその1回だけだった。

 ***
 
 河合満・トヨタ自動車副社長と、著者の野地秩嘉氏との公開対談が、7月3日(火)18時30分より、名古屋にて開催される。詳しくは http://business.nikkeibp.co.jp/nbs/nbsemi/180703/ 

デイリー新潮編集部

2018年6月19日掲載

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