「講義で教科書は使わない」 京都大学名誉教授の教育にまつわる深い話

社会2018年5月30日掲載

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教科書が大切なのは高校まで

「学校では大切なことは学べない」とか「教科書は何も教えてくれない」といったフレーズは、J-POPではよく目にする。もちろん、そういう面はなきにしもあらずだろうが、入学早々そんな言葉を真に受けたら、卒業時には痛い目にあう可能性が高い。せっかく買ったのなら教科書からも学んだほうがいい。

 しかし、細胞生物学者の永田和宏京都大学名誉教授は、大学の講義では教科書を使わない方針だという。参考図書として教科書的な本を指定することはあるが、自分では使わないというのだ。

 もっとも、その理由はJ-POP的なロジックによるものではない。

 永田氏も、「高校までの教育では、教科書は必須のアイテム」だとしている。基礎的な知識を伝えるうえで教科書はうまく構成されており、教科書なしに知識を体系立てて伝えるのは難しいという。

 しかし、大学では話が別だ、というのが永田氏の考えだ。その理由はかなり奥深い。

 永田氏の新著『知の体力』から、その「教科書不要論」の部分を見てみよう(以下、同書から引用)。

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「わかっていないこと」を教えたい

 私の講義では教科書をつかわないと先に述べた。そのもっとも大きな理由は、「わかっていること」を教えるよりは、「わかっていないこと」を教えることこそが、大学における教育、講義の本来の姿だと考えるからである。「まだわかっていないこと」を学生諸君に紹介し、それがなぜまだわかっていないのかを説明する。その「なぜ」に興味を持ってもらうことこそが、大学教育の本来の姿、学問をすることの第一歩であると思っているからである。

 教科書は便利でよくできており、必要な知識はほぼすべて漏れなく収録されている。しかし、教科書には唯一、書かれていないことがある。それは「わかっていないこと」である。「わかっていること」は必要十分に網羅されているのが教科書だが、教科書には、唯一、「まだわかっていないこと」は書かれていないのである。当たり前のことである。

 私の専門は理系なので、どうしてもそちらの教科書を中心に考えることになってしまうが、高校までの教科書を注意深く読んでみても、知識の先端にあって、これはまだ明らかでないという部分をわざわざ取り上げて、そのわからない理由や、いくつもの理論があって定説がないなどという部分をクローズアップしている教科書は、たとえあったとしても例外的であろう。多くは、すでに「わかっていること」が整然と述べられているのが教科書である。

 すでに「わかっていること」を習得、すなわち学習することも大切であるが、より大切な学びは、すでに「わかっていること」のすぐ横には、まだこんなに「わかっていないこと」があるのだということを例をもって示すこと、気づいてもらうことではないだろうか。

 もちろん「まだわかっていないこと」をわかってもらうためには、「わかっていること」を知っているということが前提になる。「だから、仕方がないから教科書に書いてある内容も講義するけれど、しばらく我慢して聞いてほしい」と言って、いわゆる講義もしなければならなくなる。しかし、わかっていることをしっかり理解してもらうことは、わかっていないことを知るための前提という位置づけである。何人かに一人の学生が、そんなわかっていないことばかりの世界に魅力を感じて、研究者への道を歩んでくれればというはかない望みを持ちながら、講義をしているのである。

 わかっている事実の山のような集積を見せつけられたら、誰もその上に自分が何かを築こうなどとは到底思えないものだが、「わかっている」と思っていたことのすぐ横に、こんなことさえもまだわかっていないのかと知ることは、それなら自分でも何とかその問題、課題の解決に参加できるかもしれないと思わせる契機になるだろう。受動的な学習から、能動的な学問へのシフトは、まさにそんな「ひょっとしたら、自分でも」と能動的に考えることを外しては起こり得ないのである。

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 断っておけば、これはあくまでも永田氏の考えであって京大全体の統一された教育方針ではない。しかし、東大と匹敵する理系のノーベル賞受賞者数を誇っている理由の一つとして、こうした好奇心を刺激する教育が挙げられるのかもしれない。

デイリー新潮編集部