ザ・スパイダースからさらに羽ばたいた「井上堯之さん」笑顔と心意気(墓碑銘)

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 日本の音楽史にその名が刻まれるミュージシャンである。週刊新潮のコラム「墓碑銘」から、井上堯之さんの功績を辿る。

 1961年に田邊昭知さん(現・田辺エージェンシー社長)らが結成したザ・スパイダースは、グループサウンズの先駆けであり、実力も群を抜いていた。

「堺正章さん、ムッシュかまやつさん、井上順さんは笑いも取って目立ちました。井上堯之(たかゆき)さん、大野克夫さん、加藤充さんのように、地味に見えて音楽面を支えた才能もいる。来日バンドの前座といえばお呼びがかかったほどの演奏力でした」(音楽評論家の反畑誠一さん)

 グループサウンズの人気は67年頃に頂点となる。70年末にザ・スパイダースは解散。井上堯之さんと大野さんは沢田研二、萩原健一らとPYG(ピッグ)を結成した。沢田のソロ活動も支え、萩原のおかげで新境地も開拓。

 日本テレビで72年に放送が始まった「太陽にほえろ!」のプロデューサーを務めた岡田晋吉(ひろきち)さんは言う。

「刑事役で出演するショーケン(萩原健一)が、テーマ曲はバンドでやった方がいいよ、とアドバイスしてくれたのです。作曲は大野さん、演奏は井上さんのバンドに頼んだ。テレビドラマでは前例のない音楽のスタイルで、井上さんのギターがかっこ良かった。視聴者からレコード化して欲しいとの声が殺到しました」

 走る刑事の姿が浮かぶような臨場感。子供もメロディを口ずさむ親しみやすさ。この成功で井上さんは映画音楽も手がけるようになる。神代辰巳、蔵原惟繕、降旗康男、鈴木清順、深作欣二ら多くの監督に請われた。

「映像や物語に埋もれても、音楽の主張が強すぎてもいけない。作品の意図、登場人物を理解していないと映画音楽はできません」(映画評論家の白井佳夫さん)

 41年、兵庫県の神戸生まれ。父親は市電の運転士だが戦地に斃(たお)れ、井上さんにはほとんど記憶がない。高校卒業後、鮨屋で働くが、ギターへの思いを断てず、バンドマンになる。61年、上京。バンドの先輩に偶然出会えたことが、62年のザ・スパイダース加入につながった。

 大御所になっても自分を厳しく追い込む面があった。80年代半ばには演奏活動を5年間きっぱりと止め、作曲に専念している。87年には近藤真彦に提供した「愚か者」が日本レコード大賞に輝いた。大きな成果を出しても慢心しない。50歳を前に自分を見つめたいと、妻子がある身なのに2年間も全く仕事をしなかった。

 94年、53歳で癌が見つかると、手術せずに瞬間を大切に生きようとする。結局、胃の3分の2を切る手術をしたが、生まれ変わった気持ちだと、より挑戦的に。

 99年、かまやつさん、堺さんと3人でバンドを組み、紅白歌合戦に出場、2005年公開の映画「カーテンコール」には年齢を重ねた幕間芸人の役で出演した。

「井上さんの映画音楽の虜でした。コンサートも聴き、笑顔を見ているうちに涙が出てきました。人間が温かいのです。大病で9回裏2死満塁のような張り詰めた精神状態を前向きにとらえて乗り越えてきた気迫があっての、今の笑顔なのだと感じました。打ち上げの席で井上さんは、出演させてもらい、また命をいただきました、とおっしゃった。私達は泣いてしまいました」(監督を務めた佐々部清さん)

 09年、体調を理由にプロ引退を宣言。だが昨年5月にはかまやつさんを偲ぶ会で元メンバーと共演した。

 5月2日、敗血症のため77歳で旅立つ。

 東京・西荻窪にあるライブハウス・テラの代表、寺田一仁さんは言う。

「3カ月に1度ほどの割合で井上さんのライブを開催していました。3月11日のライブはその前よりも調子が良く、次は6月10日に予定していたほどです。神様のような存在なのに、昔話をする時もとても謙虚でした。ファンの皆さんと楽しそうに過ごして下さった」

週刊新潮 2018年5月24日号掲載

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