帰還困難区域「飯舘村長泥」区長の希望と現実(下)「ネットワーク型」で帰還は促進するか

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 そもそも除染土を再利用しようという環境再生事業は、福島県内の除染で生じた汚染土の処理の一助として発想された経緯がある。除染後の汚染土は本来、環境省が東京電力福島第1原子力発電所のある双葉、大熊両町に造成中の中間貯蔵施設に搬入され、30年間保管される計画だが、先に触れた同省の報告書「除去土壌再生利用に向けた動向について」はこう記す。

〈除去土壌等の発生量は、最大約2200万立方メートルと推計され、全量をそのまま(県外で)最終処分することは、必要な規模の最終処分場の確保等の観点から実現性が乏しい。そこで本来貴重な資源である土壌からなる除去土壌(注・汚染土)を部分的に何らかの形で利用し、最終処分量を低減することが考えられるが、放射性物質を含むことから、そのままでは利用が難しい。

 このため、減容・再生利用に関する技術開発を推進し、除去土壌等の減容化を最大限図るとともに、安全性の確保・地元の理解を得て、減容処理により得られた放射能濃度の低い土壌を再生利用する仕組みを構築していくことが必要〉

汚染土処理の一助と発想

 除染で生じた汚染土のフレコンバッグは、飯舘村だけで230万袋(1袋が約1トン)と言われる。同省は、用地確保が難航した中間貯蔵施設の造成が進んだところから汚染土の搬入を受け入れており、今年3月には「福島県内の仮置き場約1300カ所のうち、2020年度当初までに6割に当たる720~760カ所で撤去が完了する」との見通しを公表した。

 しかし、飯舘村でも中間貯蔵施設への搬出は始まっているが、まだ目に見える形での撤去は進んでいない。飯舘村長泥区長の鴫原良友さん(67)は言う。

「避難指示解除になった今でも、各地区の道路脇には田畑を借り上げた仮置き場にものすごい量のフレコンバッグの山がある。俺の2人の孫は今春に再開した村の小中学校に、今暮らす福島市飯野町の村の公営住宅からスクールバスで通っている。子どもらの親たちも放射線量を気にしているようだ。住民の帰還にも響く。そうした環境へのさまざまな声から、村もまた、せめて少しでも早くフレコンバッグを目に見える場所から撤去させたいのだろう」

「俺たちは何度も役員会、臨時区会をやった。反対するなら、この話を国に返さざるを得ない――と村からは言われた。(農地の再生で)土を盛るのを除染とは言わないが、皆も『仕方ないべな、(地区の環境を)きれいにして地元に返すというのだから』と受け入れた」

「長泥はこのように誰も帰還することができない。どこかが犠牲になっても仕方がないと思っているところはある。だから俺は以前から、長泥の除染が無理なら、国が全域を買い上げてほしい、と訴えてきた。それならば諦めもつく。でも、国はそれにも応じなかった」

 復興拠点計画を国が認定した4月20日、吉野正芳復興相は閣議後の記者会見で、「除染土の再利用は新たな産業創出という点で、かなり先進的なモデルになるのではないか」とコメントした。同じ日、菅野典雄飯舘村長は「長泥地区は村内の除染土を再利用する実証事業を受け入れてくれた。こうした事情を理解し、国が避難指示解除に向けて動いてほしい」と述べ、「帰還困難」からの救済のため、村として最大限の後押しにしたい考えをにじませた。双方の事情を鴫原さんは知るが、地元の複雑な思いが伝えられぬ悔しさがある。

「復興拠点」の実像

 それでは、どんな「復興拠点」が生まれるのか。村が公表した計画案は、〈村の掲げる「ネットワーク型の新しいむらづくり」の理念を踏まえ、「地域住民が生き生きと暮らし、絆をつなげる拠点」「次世代に長泥の歴史をつなげる拠点」を目指す〉。

 避難指示解除の目標は2023年春頃までで、〈村営住宅、交流施設、帰還者が利用する住居・農用地等については、整備ができた箇所から先行して避難指示解除することを目指す〉。居住人口は約180人(うち帰還者178人)、営農者数は約20戸で、一般財団法人飯舘村振興公社が作付け、営農を支援するという青写真だ。

 鴫原さんと長泥の集会所を訪ねた。白いサイディングの壁、緑の屋根で、統廃合でなくなった旧長泥小学校跡に15年ほど前に建てられた。小学校の名残の体育館が脇に立ち、校庭は多目的広場になっている。「この周辺は国が買い上げて、新しい集会所や公営住宅を建てるそうだ」。いわゆる復興拠点の中心、「居住と交流」の場とされる。

 新しい集会所は、もともと長泥行政区が、帰還困難区域での国の復興拠点整備の構想から「対象外」と扱われた当時から、前述のように「せめてミニ復興拠点となるような施設を」と要望してきた。

「草刈りをしても、自宅の水道、ガス、電気が止まって、シャワーも浴びられない。草刈りの機械を背負って2~3時間も刈ると汗だくになる。まずシャワーの設備を付け、5人、10人で泊まれるようにしたい。遠来の客も泊めてやりたいし。住民が避難先から会議で集まった時、『じゃあ、きょうは帰られないから、飲んで食べて、おしゃべりするか』という時のためにも。今だって年に4回の草刈りの共同作業の後、皆で30分とか1時間、この集会所で話し合っているよ。だから、長泥はまだ何とかまとまれている」(鴫原さん)

 集会所の中は、帰還困難区域と思えぬほどきれいに整っている。「いやいや、あんまり掃除はしていない。俺も用事のある時しか来ないし、女の人たちも今は来ないし」。

 広間の壁の高い所に、歴代区長の写真が並べてある。2010年3月に選ばれた鴫原さんは18代目という。明治の初代区長、高野熊吉のころの長泥は5、6戸しかなく、熊吉は地元に白鳥神社を勧進。以来、住民全戸が氏子となって祭りを催してきており、長泥の住民の絆はここからはぐくまれた。

「氏子には(創価)学会も、キリスト(教徒)もいるよ。西暦2000年になった記念の年には、俺が発起人になって寄付を集め、狛犬1対を寄進した。それを祝って『遷宮』をやった。集落で大きな出来事があった時しかやらなくて、俺の人生では2回だな。御神輿を担いで歩いて、神様の宿を作って下ろして、そこで飲み食いをしたり踊ったりした。昔は皆、炭焼きをやっていたから、小屋の造作は得意だったんだ」

 壁の一角に、緑の葉で埋まった畑の写真がある。住民の男女が農作業をしている。

「ヤーコン(南米原産の根菜。キク科の食用植物)だよ。長泥の特産にしようと仲間8人でヤーコンの生産組合『長泥ヤーコン会』をつくり、7~8年がかりで栽培した。写真は俺の畑で、皆で苗を植えたところ。お茶にしたり、うどんを作ったり、干しいもにしたり。味は良くて、子どもたちは喜んで食べた」

 写真の隣には、村と共同で商品化した「ヤーコン焼酎」のポスターもある。「原発事故の前年ごろに売り出した。わずかな間だったな」。

 それらの活動の拠り所として歴史を重ねた集会所のにぎわいは、よみがえるだろうか。

何人が帰還するか

〈鴫原さんは村から避難先に割り当てられた福島市内の公務員アパートに家族5人で仮住まいし、長泥の自宅に1週間から10日おきに通う。屋敷林を背負う平屋の農家で、父親が63年前に分家して建てた。

 まわりの田畑や敷地は雑草もなく手入れされているが、母屋に家具類はない。唯一、神棚がにぎやかに飾られ、「家内安全、身体堅固、交通安全」の大きなお札が住んでいた家族の数だけ並ぶ。地元の白鳥神社の毎年の祭日に、住民が避難先から集まって祈祷を受けており、共同の草刈り作業以外でそれだけが変わらない習慣だという〉(2016年12月26日『取り残される飯舘村「長泥地区」(上)「同じ村」の中での格差』より)

 愛着深い自宅を、鴫原さんは周囲の環境再生事業に合わせ、国に解体してもらうという。「後から建てた新しい2つの物置だけを残す。古い家を置いておいても、もう仕方がない。俺が元気なうちはいいが、うちの2人の息子は長泥に戻らないと言っている」。

 長男は福島市内で独立し、鴫原さんは奥さん、次男の家族と5人で、村の復興住宅に昨年移って暮らしている。孫たちの通学に便利な場所だからだが、福島市内に安い中古の家も買ってある。

「同居する家族からは、原発事故から数カ月もしないうち、『長泥の家にはもう帰らない。帰りたいなら、お父さんが1人で帰って』と宣言されてしまったから」

 復興拠点づくりを通して国は5年後までに、事業の進捗に合わせて順次、避難指示解除をしていく方針で、事前の基礎調査をしたという村は「180人」が居住するようになる――という目標を掲げた。また、復興拠点とする新しい集会所のそばに、周辺を除染した上で公営住宅を新設する計画で、8戸分になる見込みという。目標に比べると、あまりに少ない感はあるが、現実には「長泥に戻って住むだろうと数えられるのは、5人くらいかな。7年の間に、避難先に家を買ったり建てたりして、もう戻らないと決めた人がほとんどだから」。

 村が3月に公表した計画案には、〈帰還して居住する住民に加えて、当面避難先との2地域で生活する住民のための住環境等の整備による地区の再生〉とあり、これは「外に住みながら通って長泥に関わる人、再生される農地を実際に営農したい人に委託しようという人なども含む人数だろう」と鴫原さん。数多くの帰還者を望めぬ被災地で、計画案にある「ネットワーク型の新しいむらづくり」という言葉は、そうした形での「帰還」を指す。長泥の公営住宅が建設されれば、鴫原さんはそのうちの1戸を申し込むつもりだ。家族と暮らす場所とは別の「古里での活動の家」にするという。

「今、長泥を挙げて地区の維持管理をやろうというとき、参加してくれるのは25人くらい。以前は40人いたけれど。その中でも頑張っている人は8人ほど。俺のほかは皆、上の世代だ。40~50代の人はいない。だから、この古里を守っていく活動も、あと5年か10年」

 避難指示解除の目標である5年後までに、何人が現役として残っているか。「中山間地の過疎、人口減が早まったようなものだ」。

白鳥神社の祭りを前に

 荒れた水田跡に挟まれた道を進んだ先の集落に、石の鳥居が見えた。白鳥神社だ。鴫原さんが発起人になって氏子である住民の寄付を募ったという、1対の狛犬がある。寄付者全員の名を刻んだ石碑が傍らに立ち、「20世紀の終わりに『やっぺ』と声を上げたら、皆がまとまり、200万円が集まった」。そんな長泥の住民たちの絆が記録されていた。

「ああ、今年は誰かがやってくれたなあ」。鳥居をくぐると、鴫原さんは驚いたように、うれしそうに語った。参道の両側に連なるヒバの植え込みが、丁寧に剪定されていたのだ。人の背丈以上の木々の枝葉を数十メートル分も刈っていくのは、大変な作業だったろう。「以前は大勢で手入れしていたんだ。4、5年も刈っていなかったから、ぼうぼうと伸び放題だったろうに」。この取材から5日後の4月22日が、白鳥神社の例祭だった。

 杉木立の下の石段には枯れ葉が積もり、それを登りきると、どこまでも枯れ葉色に埋まる境内に質素なたたずまいの社殿があった。祭日の朝8時半に鴫原さんら世話人が集まり、鳥居の前に神社の旗を立て、境内を清掃し、社殿を清めるのが習わしだ。「世話人は5、6人。これをきれいにするのは大変だぞ」。10時には住民がそろい、同村草野地区にある綿津見神社の宮司を招いて、祝詞を上げてもらう。そして、この1年の住民の家内安全、古里の平安を守るお札を授かり、神様の前で会食をする。「今年も20人くらい集まりそうだ。(環境再生事業を主管する)環境省からも、参列したいと連絡があったよ」。

 その環境省には言いたいことがある、と鴫原さんは言う。復興拠点となる新しい集会所、公営住宅の整備予定地のすぐ背後の高台に広がる畑地を、「長泥に運び込むフレコンバッグの置き場にしたい」という同省側の意向を、役場で耳にしたというのだ。その畑地は6年前に農地のモデル除染が行われた一角で数ヘクタールあり、雨で土砂が集会所の方に流れ込まないように、今は牧草を生やしている。搬入に便利な道路があり、平地で除染もしてある。事業の施工者側にとっては都合のいい場所だ。が、「そりゃあ趣旨が違う。そこには新しい集会所や公営住宅が建ち、人が集まって交流したり、暮らしたりする所だ。いくら持ち主に借り上げ料が払われるといっても、長泥の、復興拠点のイメージに関わる。やっぱり、地元は利用されるだけなのか、と思われてしまう。事業が始まる前から、そんな話はだめだよ」。

「ああ、食べたいな」

 長泥入り口の峠のゲートに続く帰り道で、ため池を調査しているというワゴン車を見かけた。国の機関だろうか。「農地の再生の準備のためか、農業用の水が汚れていないか、使えるかどうか、調べているそうだ」。

 数年後に長泥に戻れたとしても、鴫原さんはもう農業はやらないと言う。

「俺は原発事故の後、何も知らされないままに高い放射線量の中で6月までとどまり、『鴫原に何事もなければ、ほかの人は大丈夫だ』と笑い話にまでされた。その後も地元に通って活動をし、もう離れられないけれど、食べ物を作る気持ちにはならない」。

 車窓の外には、原野に戻った農家の畑でタラノメの木が新芽を付けているのが見えた。「ああ、食べたいな」と鴫原さんは笑った。放射性物質濃度が高い山菜類の採取は規制されているが、「我慢ならなくて、2年くらいは黙って採って食べたよ」。復興拠点が生まれたとしても、原発事故前の長泥にはもう戻らない。あるいは、復興拠点づくりをきっかけに、ここで全く新しい農業を始める人が来たり、古里の未来を開拓してくれる企業が進出して公営住宅の新住民になってくれたりしたら、というほのかな期待もある。が、鴫原さんにも、そんな先の未来は見通せない。

寺島英弥
ジャーナリスト。1957年福島県生れ。早稲田大学法学部卒。河北新報元編集委員。河北新報で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)、「時よ語れ 東北の20世紀」などの連載に携わり、2011年から東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として2002-03年、米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』『福島第1原発事故7年 避難指示解除後を生きる』(同)。3.11以降、被災地における「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を書き続けた。

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Foresight 2018年5月19日掲載

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