帰還困難区域「飯舘村長泥」区長の希望と現実(上)動き出した「復興拠点」計画

政治Foresight 2018年5月19日掲載

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 東京電力福島第1原子力発電所事故の帰還困難区域を対象に集中的な除染とインフラ整備で住民の帰還を促す、国の「特定復興再生拠点区域(復興拠点)」の整備計画がこのほど福島県内の被災地6町村で決まった。飯舘村で唯一の帰還困難区域が長泥地区。2017年3月末に村の避難指示解除は解除されたが、長泥は国から除染計画も救済策も示されぬまま、半ば見捨てられていた。が、にわかに復興拠点の整備が決まり、その前提には除染で出た汚染土を再利用する計画があった。古里への愛着から「苦渋の選択」で受け入れた行政区長とともに現地を訪ねた。

 およそ1年半ぶりに訪ねた帰還困難区域の飯舘村長泥は、満開の桜に染まっていた。

 4月17日、行政区長の鴫原良友さん(67)に同行して山あいの国道399号をたどり、地区の入り口をふさぐ鉄製バリケードを開けた向こうの風景。標高約600メートルの峠から集落に続くつづら折りの道沿いで、約100本の並木の桜が咲き誇っていた。62年前の2村合併で発足した飯舘村の初代村長が長泥出身で、記念に苗木を配り、住民たちの手で育てられた。晩秋だった前回の取材時には紅葉で、自慢の桜をただ想像するほかなかった。「今年の満開は、例年より10日は早い」と見入る鴫原さん。眺めのいい峠の頂上には公園が設けられ、住民は毎春桜の下で記念写真を撮り、飲み会を催したそうだ。

 が、長泥は7年前の東京電力福島第1原子力発電所事故後、村内で最も放射線量が高く、唯一の帰還困難区域に指定され、地区への立ち入りも制限された。避難先から桜を見に来る住民もいなくなったが、並木の下には、やはり大事に植えられたスイセンやスズランが春を忘れずに咲いていた。

国は「半ば見捨てるような姿勢」

 原発事故被災地では昨年3月末、国が全住民を避難させた飯舘村などの避難指示を解除した。高線量のため除染されぬまま7市町村に残った帰還困難区域でも、街の中心部など交通、産業、居住の要地となりうる区域を「復興拠点」(特定復興再生拠点区域)に指定し、集中的な除染とインフラ整備の上で住民の帰還を促す方針を打ち出した。わずか73世帯の長泥行政区も、地区全域の除染など帰還に希望をつなげられる救済を訴えたが、国側は2016年11月、村民も同席の説明会で「長泥は『復興拠点』に該当しない」との考えを示し、「避難先での『なりわい』再開などへの生活支援を考える」といった回答に終始。半ば見捨てるような姿勢に鴫原さんらは憤りながら、やむを得ず2017年8月、「せめて、住民が集えるミニ復興拠点を設けてほしい」と村に要望した。

〈(村への)要望書提出の方針は6日、行政区が地元の集会所で開いた総会で、参加した約50人に説明した。それによると、ミニ拠点は現在の集会所(コミュニティーセンター)、体育館、グラウンドがある場所に設定。宿泊施設のほか、地区の歴史を伝える資料館の整備を求める〉〈行政区長の鴫原良友さん(66)は「これまで村や国に何度も(全域の)除染を求めたが駄目だった。誰も納得できないが、妥協しないと前に進めない」と苦渋の表情で理解を求めた〉(同月8日の『河北新報』より)

国内第1号の手法

 避難指示解除から取り残され、先の見通しがないままの「閉塞」状況は、しかし、潮目が変わったように突然開けた。2017年10月に環境省が村に提案した「環境再生事業」がきっかけだ。これは、除染作業で生じたフレコンバッグの廃棄物の中から、同省が「放射性物質を安全に焼却したり埋設したりできる」基準としている8000ベクレル(1キロ当たり)以下の土だけを選別して、盛り土など土木資材として再利用するという事業だ。そのための「実証事業」(実用化試験)も2016年12月から、南相馬市小高区の除染廃棄物の仮置き場で行ってきた。

 同省の報告書『除去土壌再生利用に向けた動向について』(2017年11月)によれば、実証事業では高さ2.5メートル、長さ54.5メートルという道路状の台形の試験場を造成。内部は5層の汚染土を盛り、その表層を厚さ50センチの未汚染の土で覆った。その結果、作業員の外部被ばく線量、空間線量、降雨などの排水の放射性物質濃度ともに安全が確認されたという。

「有効性が証明された事業を長泥でやってみてはどうか、という提案だった」(飯舘村役場)。同省は、この方法で汚染土を全国の公共工事に再利用する方針を打ち出しており、実用化されれば第1号となる。村から鴫原さんら行政区に紹介されたのは10月末。役員会、住民への説明会を経て、菅野典雄村長、伊藤忠彦環境副大臣と鴫原区長がそろって、村役場で「長泥での環境再生事業実施で合意」を発表したのが翌11月22日という早さだった。この手法で111ヘクタールもの再生農地を造成し、地区の中心部は除染の上で新しい集会所や公営住宅を「復興拠点」として設けるという村の計画案が、2018年3月27日に国へ申請され、4月20日には国が認定するという、住民の方が驚くような展開となった。

「国内、世界でも初めての手法なのだそうだ。地元は歓迎しているという印象だが、『(環境再生事業を)受け入れなければ、話をこのまま国に返すほかないんだ』と役場からは言われた。やるか、やらないか、しかない雰囲気だった。古里に外から汚染土を持ってこられて、誰も喜ぶはずはない。だが、事業をやることで(年間被ばく)線量が帰還困難区域の指定基準(20ミリシーベルト)より下がれば、解除されて帰還宣言を出せるだろうとも言われた。俺たちからすれば苦渋の選択だった」(鴫原さん)

苦い曲折の道のり

 車は峠道を下って長泥の集落に入り、鴫原さんの自宅に近い水田跡で止まった。その一角に除染廃棄物のフレコンバッグの保管場所があり、「空間線量 0.64マイクロシーベルト」との掲示があった。村の定点測定値では、同じ長泥の農地の空間線量は2.45(4月5日現在)。除染後に避難指示解除された隣の比曽地区の定点測定値0.24の10倍以上あり、この保管場所がある水田跡の線量の低さは目を引いた。

 ここは、農林水産省が原発事故翌年の2012年2月から長泥で行った、農地除染対策実証事業の試験地だった。「俺の水田もモデル除染に含まれて、土の放射性物質濃度はわずかしかない。コメも作れるよ(事故当時の農水省のコメ作付けの暫定基準は1キロ当たり5000ベクレル未満)。コメからも基準値超えの放射性物質は出ないことは分かっている。実際にコメの試験栽培を、俺はやったんだもの」。この経緯については、やはり鴫原さんを取材した2016年12月27日の拙稿「取り残される飯舘村『長泥地区』(下)『行き違い』の末の袋小路」に次のように記した。

〈長泥地区は、農林水産省が12年2月から飯舘村で行った農地除染対策実証事業の実験地の1つだった。水田と畑計11ヘクタールで表土から5センチのはぎ取り除染が試され、報告書では土1キロ当たりの濃度約2万ベクレルの放射性セシウムが91%低減(注・約1600ベクレルに)し、8.72マイクロシーベルト/時もあった空間線量も2.29へと74パーセント減った。鴫原さんの水田も含まれ、「いま測ると、空間線量は0.6ほど」という。効果はあったが、同年7月の帰還困難区域指定に続き、12月には時の民主党政権そのものが総選挙で倒れた。東北出身の当時の鹿野道彦農相らは「何年掛かっても復興に取り組む」と積極的だったが、政権交代で、除染・復興の可能性を示した貴重なデータも忘れられた。「それを生かすことができたなら」と鴫原さんは残念がる〉

 帰還困難区域に指定された後も、長泥の復興を模索する試みはあった。この農地除染対策実証事業が行われた水田のうち鴫原さんの5アール(1枚の半分)で翌2013年、飯舘村がコメの試験栽培を行ったのだ。「田植えは3年ぶり。住民が帰還した後の営農再開につなげたい」という鴫原さんの言葉が、同年6月11日付『河北新報』に載った。

 この試験栽培の収量はわずか200キロ余り。玄米などの放射性セシウム濃度を調べた上で全量廃棄された。それでも秋の収穫時には、菅野村長が鴫原さんと一緒に鎌で手刈りをし、「ゆくゆくは消費者に喜んで食べてもらえると信じる」と、試験栽培を翌年も続けて営農再開の可能性を検討する考えだった(同年10月16日付同紙より)。検査の結果も、予想された通りに放射性物質濃度は「検出限界値未満」。

 ところが、見え始めた復興への期待は思わぬ形で消えた。

板挟みと挫折を経ても

 2014年の田植えの季節を前に、2年目の試験栽培は中止された。同年5月2日付『河北新報』が事情をこう伝える。

〈「早期帰還を急ぐ村や国のパフォーマンスに利用されている」などと試験栽培に難色を示す声が上がった。村にも「避難先から帰還困難区域に住民を戻らせて、農作業に当たらせるべきでない」との意見が村内外から寄せられたという〉〈菅野典雄村長は1日、取材に「国は帰還困難区域での除染に後ろ向きになっている。試験栽培を通じて『除染すれば安全だ』と除染を促すべきなのに、住民が反対するのは自分で自分の首を絞めるようなものだ」と語った〉

「ものすごく騒がれた。村会議員や地元の人から『区長は(長泥を原発事故で汚した)国を応援しているのか』と言われ、住民の総会でも『試験栽培はだめだ』となって」と鴫原さんは振り返った。

「将来に希望をつなぐためにも、せめて3年分くらいのデータを取りたかったが、俺個人の問題ではなかったから、どうしようもなかった」

 原発事故への憤りと放射線への不安、住民の意識の分断、全国に知られるようになった長泥という「高線量地」を巡る世論の先鋭化――それらがないまぜとなった状況で、鴫原さんは騒ぎの矢面に立たされ、村と地元の板挟みとなり、苦い挫折を味わった。

「帰還困難区域では初めてのコメの試験栽培だったから、支援した国も被災地の『安心安全』を広めたかったのだろう。だが、地元では『そんなことをすれば、帰還困難区域が見直されて賠償に響きかねない』とまで言われた」(注・区域指定の別によって賠償金の額は異なる)

 鴫原さんはそこまで語ると、除染、避難指示解除がされた村内の他地区に見劣りしないような眼前の水田風景を眺め、「雑草もなくて、きれいだろう」と言った。「毎年、8人ほどの住民の仲間が出て、共同で草刈りを続けてきた。帰還困難区域とは見えないだろう。俺たちはもともと、そんな区域指定を勝手にやってほしくなかったんだ」。帰還困難という十字架を背負わされても、混乱や対立に深く傷つき、人知れず労苦を重ねようとも、変わらない古里への愛着と誇りがにじんだ。

荒れた水田跡を埋め立て

 鴫原さんの水田から車を進めると「長泥十字路」に出た。少し南の浪江町津島地区(帰還困難区域)に通じる国道399号と県道が交わり、商店や給油所などが並んで「長泥銀座」と呼ばれた。どの店も7年間余り、閉ざされたままだ。その一角に掲示板があり、鴫原さんはそのガラス戸を開けて、綴られた記録用紙を見せた。「平成30年3月28日(水) 10:15 2.91(マイクロシーベルト/時)」。ここは長泥の放射線量の定点観測地点で、毎月1回、住民が巡回の折に書き込んでいく。

「今はこのくらいに落ち着いているが、原発事故の当初はこうだった。毎日記録したんだ」と、鴫原さんは一番古い2011年の記録をめくった。

「3月17日 14時17分 95.1」。この日から、2けたの線量が続く。やがてマスコミが飯舘村の高線量検出を報じるようになって、鴫原さんは同月27日、孫ら家族を地区外に自主避難させたが、自身が避難したのは、飼っていた6頭の牛を6月23日、福島県家畜市場での競売に出した後。区長として仲間のために奔走する役目を背負っていた。

 道路脇の水田跡には見渡す限り雑草が繁茂し、柳などの雑木が伸びて黄緑色の芽が吹いていた。水がたまったまま湿地となり、野鳥の楽園になった場所もある。先ほど眺めた鴫原さんの水田とは別世界のようだった。

「4、5年も刈らないとこうなる。普通なら復田は無理だが、これから埋め立てられるから」。

 前述した環境再生事業で、道路よりずっと低いところに位置する水田が、低レベルに選別された汚染土と客土とで道路と同じ高さまでかさ上げされるという。111ヘクタールの農地再生の計画案に「俺の水田のある、6年前にモデル除染された農地も含まれるそうだ」と鴫原さん。

 長泥十字路から県道を西に進むと、原野と化した水田跡が道路の両側に広がる。鴫原さんによると、左手は埋め立てて農地に再生され、民家が散在する右手の一帯には「フレコンバッグを運び込んで、再利用する土を選別する作業用の巨大なドームが設けられると聞いた」。

 環境再生を含めた復興拠点づくりの事業の入札がされ、本格的に工事が始まるであろう夏には、「フレコンバッグを積んだダンプカーが何百台と長泥を往来するようになる」。(つづく)

寺島英弥
ジャーナリスト。1957年福島県生れ。早稲田大学法学部卒。河北新報元編集委員。河北新報で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)、「時よ語れ 東北の20世紀」などの連載に携わり、2011年から東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として2002-03年、米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』『福島第1原発事故7年 避難指示解除後を生きる』(同)。3.11以降、被災地における「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を書き続けた。

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