あえて言う「やはり土俵は女人禁制」

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 土俵の女人禁制は女性蔑視で前近代的だと、批判が集まっている。グローバリズムの波に逆行しているし、男女平等という人類の理想とかけ離れているというのだ。確かに、京都府舞鶴市の一件は、間違った判断だった。また、歴史をふり返れば、「女性も相撲を取っていたのだから、女人禁制は矛盾している」、という主張もある。

 しかし、蛮勇を振り絞って、ここは反論してみたい。女人禁制は、一般に信じられているような「血の穢れ」が理由ではないと思うからだ。そして、当の日本相撲協会自身も、女人禁制の歴史的背景を理解していないから、混乱を招いていると思う。

 そしてこれは、相撲協会だけの問題ではない。相撲は太古の習俗を継承しているが、日本人自身が、日本人の民俗と信仰形態を知らないでいる。そこで、相撲の話は後回しにして、日本人の信仰と女人禁制について考えておこう。

女性の地位低下を招いた原因

 まず、意外かもしれないが、太古の日本に、「血の穢れ」という発想はなかった。「血(チ)」は「霊(チ)」と同源と信じていて、どちらも生命の源と考えた。明確に女性のケガレを唱え始めたのは、平安時代、天皇を頂点とする法制度(律令)が整い、男性貴族社会が確固たる地位を確立してから(要は藤原氏の天下)のことだ。それ以前、女性は優遇され、尊重されていた。それどころか、連載中述べてきたように、「神とつながる高貴な女性」は、ヤマトの統治機構の一翼を担っていた。女性は祭祀の中心に立ち、女性の力がなければ、国の安寧も約束されなかったのだ。

 万物(大自然、あらゆる現象)に精霊や神が宿ると信じた多神教世界の住人である日本人にとって、神とは大自然であり、「災害や祟りをもたらす恐ろしい存在」だった。また、祟る神を祀りなだめれば、恵みをもたらす神に変身するという発想があった。具体的には、天皇の娘(斎王、巫女)が荒ぶる男神を祀り、性的関係を結ぶことで懐柔し、神からパワーをもらい受けたのだ。その力を王に放射し(妹=いも=の力)、また、神の託宣を王に伝えたのだ。

 このシステムは巧妙にできていた。巫女を産んだ母親(キサキ)の実家が、神の託宣を利用できたからだ。神の言葉は実家の意志でもあった。つまり、キサキの実家(実力者)が王を支配できたわけで、女性の地位はすこぶる高かったのである。

 ところが、次第に女性の地位は揺らいでゆく。まず、仏教公伝(538年あるいは552年)が大きな意味を持っていた。

 仏教の経典の中に、「女性は成仏できない」「女身垢穢(にょしんくえ)」などの言葉が散りばめられている。キリスト教と同様、仏教にも、女性蔑視の発想が沈殿していた。ただし蘇我氏は、仏教を独自に解釈し、日本的な信仰形態の中に押し込めた。「神を祀るのは女性」だから、まず尼僧に得度させたのである。当時の仏教世界では異例の事態だった。

 蘇我氏といえば、渡来系のイメージが強い。しかし、彼らは縄文時代から継承されてきた日本固有の宝石・ヒスイを守り続けている。この伝統を破壊したのは藤原氏で、蘇我氏の滅亡とともに、ヒスイは捨てられる。蘇我氏は、仏教を取り込むことで国の発展を願う一方、女性を尊重するという「残すべき伝統」は守ったのだろう。

 ところがここから、女性の地位を下げる2つの要素が発生した。7世紀末から8世紀初頭の持統天皇と藤原不比等の時代に、本来男神だった太陽神(天照大神)が女神にすり替えられてしまった。その上で「女神天照大神を持統になぞらえる」ことによって、持統女帝から始まる新たな王家の正当性をでっち上げたのだ(拙著『藤原氏の正体』新潮文庫)。

 これが女性の地位の低下を招いてしまった。まず、男神・天照大神の相方だった女神の豊受大神と、天照大神を祀っていた斎王(天皇の親族の女性)が、段階を経て、無用の長物になっていく。神と結婚できなくなったからだ。また、世間一般の巫女も同じ理由から零落していく。神社の門前の花街でスケベおやじどもの相手をする遊び女に落ちぶれた。そして平安時代、男性貴族社会が確立されると、太古から継承されてきた信仰や慣習はすっかり捨て去られ、同時に世間一般の女性の地位も下がり、血の穢れが取り沙汰されていくようになったのである。

「崇拝される女神」

 ならば、女性の地位の低下と相撲の女人禁制は、どのようにつながっていくのだろう。じつはここで、修験者や山の民の信仰がからんでくる。

 学校の歴史の教科書に、修験道は載っていない。日本の信仰と言えば、神道や仏教と、みな信じ込んでいる。しかし厳密には、奈良時代から明治政府が廃仏毀釈を断行するまでの間、「神仏習合」が日本的な信仰形態で、その中心に立っていたのが修験道だった。鎌倉仏教の開祖たちの多くも、神仏習合の混沌の中から派生している。

 修験道はありとあらゆる外来思想を取り込んだ山岳信仰だが、その根っこに横たわっていたのは、古い日本の信仰と、敗れた者の誇りだ。その背景を説明しよう。

 藤原氏は実権を握ると、神道を改変し、支配していった。太陽神が女性にすり替えられてしまったのがいい例だ。また藤原氏は脅威となっていた東国の軍事力を削ぐために、東北蝦夷征討を開始する。物部氏や蘇我氏、大伴氏ら藤原氏の政敵が東国と強く結び付いていたのだ。関東の武力を北に向かわせ、「夷をもって夷を制す」という手口で、旧勢力の力を削いだわけだ。この過程で、東国に残された「縄文的な民俗と信仰」も野蛮視されていくのである。

 この結果、没落した旧勢力の一部は山に逃れ、古い信仰を守り、アウトサイダーとなって、根強く生き残り、神仏習合という新たなスタイルを確立する。これが修験道のはじまりだ。後醍醐天皇など、没落した貴種がみな修験道のメッカ吉野山を頼るのは、修験者が「敗者の末裔」だからだ。その一方で、彼らは日本中に独自のネットワークを張り巡らせ、裏から日本を動かす力を獲得していった。

 これまで神仏習合と言えば、「外来の信仰が神道を飲み込んだ」と考えられてきたが、そうではなく、民族の三つ子の魂が外来の信仰を日本化させていったと考えられるようになった。

 さらに修験者たちは、山の中に「伊勢内宮(ないくう)のアンチテーゼ」を用意した気配がある。修験者が崇めたのは、豊穣をもたらす女神だった。それは、内宮の天照大神が女性になったために零落した豊受大神そのものである。

 古来、山の民は山の神を女性(豊穣の女神・地母神=ちぼしん=)と見なしていた。たとえばマタギ(山の民)は、山に入るとき下半身を露出し、あるいは股間を地面にこすりつけて女神を喜ばせてきた。また、女性が山に迷い込めば、嫉妬されると信じ、女性を山から排除した。修験道の女人禁制の原理は、ここにある。ただし、時間を経るごとに、「なぜ女性を拒んだのか」その理由を忘れていったのだと思う。そして、近世から近代にかけて相撲が組織化される過程で、権威づけのために、修験者の「験競べ(相撲)」の要素が取り入れられ、女人禁制が定着したのだろう。土俵(山)に依り憑く神は、豊穣を約束する女神であり、相撲の女人禁制の根っこには、「崇拝される女神」が隠されていたわけである。

伝統の真実

 われわれは、いつしか太古の信仰、日本人の思想を、忘れていたのだ。世界が一神教的発想によって一色に塗りつぶされて行くのが「グローバリズム」というものなら、ここで、少し抵抗してみたくなる。太古の日本人は女神を崇め、女性を大切にしてきた。その民俗を継承したのが修験者であり、たまたま相撲の女人禁制につながったが、その原理を、日本人自身が忘れ、勘違いしているのである。

 ここはひとつ、日本の良き伝統を守り、その真実を、語り継いでいただきたい。

関裕二
1959年千葉県生れ。仏教美術に魅せられ日本古代史を研究。『藤原氏の正体』『蘇我氏の正体』『物部氏の正体』(以上、新潮文庫)、『伊勢神宮の暗号』(講談社)、『天皇名の暗号』(芸文社)など著書多数。最新刊に『「死の国」熊野と巡礼の道: 古代史謎解き紀行』 (新潮文庫)がある。

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