レーガンの電話で共同ミッション、日本の密使が動いた「米国人質」奪還作戦――NAKASONEファイル

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「幼なじみ」「経済的なテコ」

 ここで重要なのはシャヒーンが口にした「幼なじみ」という言葉である。彼が幼少期を過ごしたのはイリノイ州のタンピコという人口わずか数百人の小さな田舎町だが、じつはレーガンもこの町の出身だった。日本に同行した息子のブラッド・シャヒーンは私とのインタビューでこう証言した。

「うちの祖父母とレーガン家は近所付き合いをする仲だったと聞きました。レーガンの父親は酒癖が悪かったらしくて暮らしぶりは貧しく、私の祖母が幼いレーガンの子守りをしてあげたそうです」

 では「経済的なテコ」とは何か。ここで注目されたのが中東の産油国イランと日本との関係だった。

 ベイルートで7人の米国人を人質に取ったのはイスラム教武装組織のヒズボラ(「神の党」の意味)だが、CIAの情報などを基に米国は、それをコントロールしているのはイランと見ていた。

 NSC(国家安全保障会議)文書にも「イラン政府の上層部の過激分子がレバノンのテロリスト、特にヒズボラに作戦上の指示を送っているとの新たな信頼できる情報を入手した」(85年1月14日付)とあり、言葉を変えればイランを落としさえすれば人質は解放される。そのため米国はあらゆる外交ルートでイランに働きかけたが、当時、両国は国交も断っており成果は望むべくもなかった。

OSSの戦友

 そこでシャヒーンが着目したのが日本の存在だった。85年の時点のわが国の原油輸入先で、イランはサウジアラビアやアラブ首長国連邦と並ぶ一大供給源で関係も良好である。またイラクとの戦争が長引くイランにとっても日本は戦費確保に欠かせない市場で、そこへ密使を派遣して原油を交渉カードに使おうというのだった。落合はシャヒーンの考えをこう書いている。

「イラン側はまずシラを切ってくる。それに対して密使は“あんた方がシラを切ろうが切るまいがわれわれには興味はない。こっちの欲しいのは7人のアメリカ人人質だ”と言い切らねばならない。そして、イラン側がまだシラを切るなら原油の輸入をストップすることを匂わして席を立つ。イラン側はわめき散らすだろうが、彼らの頭の中には進行中のイラ・イラ戦争がちらつくはずだ。もし日本が原油を買わなくなればすでに火がついている国家財政はなおさら逼迫する」(落合前掲書)

 いわばテロリストの黒幕を脅迫して人質を奪還するシナリオで、落合は知人の自民党の国会議員を通じて中曽根側に打診してみた。総理も大いに乗り気なのを確認してシャヒーンはCIAのウィリアム・ケーシー長官に電話を入れ、こうしてレーガン大統領からの電話が準備されたのだった。息子のブラッドもこの時の事を覚えているという。

「父は安宅産業の件など日本と長年の関係がありました。日本がイラン原油の大口顧客で大きな影響力を持つのを知ってたんです。当時、病室や滞在先の帝国ホテルにケーシー長官から直に電話があったのを覚えています」

 先に紹介した(※前回参照)7月27日付のNSC文書はそれを受けた物で、ロバート・マクファーレン国家安全保障担当補佐官から大統領に宛てた会談用準備メモも添付されていた。そのメモを読めば中曽根への電話の狙いが分かるはずだが、何故かそれは今も機密扱いになっている。だが別に文書が機密解除されるのを待つ必要もなかったようだ。というのは、当のレーガン本人が日記で中曽根への電話の中味を暴露してしまっていたからだ。

 レーガンは2004年に93歳で死去したが、その3年後に彼が任期中につけていた日記が出版された。その中の85年7月27、28日の欄を見てみる。

「日曜日の午前中、中曽根総理に電話を入れた。レバノンの7人の人質を解放させるため(極秘裏に)イランに密使を派遣して、圧力をかけてくれるという。日本は貿易でイランに大きな影響力を持っている。この問題が私たちにとっていかに重要であるかを告げて感謝の意を伝えた」(『ザ・レーガン・ダイアリーズ』ハーパー・コリンズ社)

 レーガンは任期中、毎日丹念に日記をつけた事で知られるが、この頃はレバノンの人質問題が頻繁に登場し、拉致の犯人を「バスタード(あの野郎)」、「バーバリアン(野蛮人)」などおよそ大統領らしからぬ言葉で罵っていた。彼にすれば藁にもすがる思いで電話をかけてきたのだろうが、こうした日記の記述は先述のNSC文書やシャヒーンの息子の証言とぴたり重なる。

 そして、この工作の裏にはもう一つ、重要な縁が存在した。そもそも一石油会社の経営者に過ぎないシャヒーンの提案を、なぜCIAのケーシー長官は受け入れて実行したか。じつはこの2人は第2次大戦中、米情報機関OSS(戦略情報局)で欧州での秘密作戦に従事した戦友だったのだ。

 OSSは大戦中にウィリアム・ドノバン将軍の下で設立され、世界各地で情報収集や敵地での奇襲、破壊工作を行い、CIAの前身とされる。その後、元隊員たちは政官界や実業界で活躍したが同窓会を通じて強力なネットワークを形成した。私の手元に70年代のOSSの同窓会の役員リストがあるが、ここにもケーシーとシャヒーンの名前が並んでいる。

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