江川卓「空白の一日」秘話 翻弄された「小林繁」と「藤圭子」

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 天賦の才に恵まれた怪物「江川卓」は、こと運に関しては天から見放されていた。彼の人生が、プロ野球界に大激震が走ったあの「空白の一日」に向け暗転し始めたのは、昭和52年(1977)9月のことだ。有力政治家の懐刀だった仕掛け人がその舞台裏を明かし、今だからこそ語れる秘話を披露してくれた。

 ***

 その日、法政大学4年の江川が父、二美夫氏と一緒に訪ねたのは、東京・平河町にある元自民党副総裁・船田中(なか)の個人事務所だった。

 船田は作新学院理事長で、何かと江川の相談にのってきたが、この日の用向きは、プロ野球入団のことだった。同席したのは、船田の秘書・蓮実進氏である。後に江川の後見人となる人物だ。

「大学入学の時、慶應大学にまさかの不合格となり、辛い思いをしたので、プロ野球への入団はすんなりやりたいという相談でした」

 巨人ファンの船田が、

「巨人以外は駄目だよ」

 と言うと、二美夫氏が、

「いや、ドラフトというものがあって、自分の希望通りにはいかないのです」

 と説明すると、船田は蓮実氏にこう指示を出した。

「ちょっと研究して、何とかしてやってくれ」

 蓮実氏は野球協約を読み込むことから始める。するとある条文に目がとまった。

 野球協約の第138条(交渉権の喪失と再選択)。

〈球団が、選択した選手と翌年の選択会議開催日の“前々日”までに選手契約を締結し、支配下選手の公示をすることができなかった場合、球団はその選手に対する選手契約締結交渉権を喪失する〉

「つまり、ドラフト会議の前日1日だけは、どの球団とも自由に交渉ができる」

“法の盲点”を見つけた蓮実氏は、念のため、当時の内閣法制局長官・真田秀夫に確認に行ったところ、「これなら問題ない」と太鼓判を押してくれた。

 もっとも、ドラフトで巨人だけが指名する環境が整えば、1年をムダにしなくてすむ。そこで蓮実氏は、巨人以外の全球団のオーナーに船田自身が電話で直に説得する工作を画策。実際、大物代議士はこう要請した。

「江川君は小さい頃から巨人ファンなので、夢を叶えさせてやってください」

 当時のドラフトは、クジによって指名する球団の順番を決める方式だった。

 11月22日のドラフト会議当日、1位を引き当てたのがクラウンライター(以下クラウン)、2位が巨人となった。船田と事務所のテレビを見ていた蓮実氏は思わず拍手し、こう言った。

「これで江川は巨人に決まりですね」

 なぜなら、クラウンの中村長芳オーナーは、船田の電話工作に対してこう応じていたからである。

「私は常々、プロ野球はフランチャイズをやるべきだと思っています。関東出身の選手は関東の球団に入る。江川君は栃木県だから巨人に入るべきでしょう」

 しかるに、である。クラウンが指名したのは、他ならぬ江川だった。船田、蓮実氏、何より江川の落胆は察するにあまりあるが、当時、クラウンの球団代表だった坂井保之氏の言い分は異なる。

「江川を指名しないと確約していた? そんなことはあり得ませんよ。中村オーナーは岸信介の秘書だ。派閥の長でもないフナチュー(船田中)の話を中村が聞くわけない。球団経営を任されていた俺としては、一番いい選手を指名しただけ。当時、経営状態は確かに悪かったからね。沈みゆく船をこのままにしておくわけにはいかない。代表としての意地だよ」

 江川は渡米、1年後のドラフトを待つことになる。

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