スターリンが権力を握り、農村を破壊する

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 1921年のネップ(新経済政策)の採択には、経済的な意味だけではなく、政治的な意味もあった。

 それは、ヨシフ・スターリン(1878年~1953年)が権力を握る過程の始まりなのである。ネップが自由経済の導入であり、スターリンがその後究極の計画経済を導入したことを考えると、これは誠に皮肉なことだ。

 ネップの採択前、ウラジーミル・レーニンの後継者は、衆目の認めるところ、レフ・トロツキー(1879年~1940年)であった。

 トロツキーは、10月革命における指導者の1人であり、レーニンに次ぐ中央委員会委員であった。赤軍の創設者および指揮官として、内戦における白軍の撃破や、外国の干渉の排除に大きな功績をあげていた。

 ところが、ネップ導入に先立つ1920年11月、急進的な共産主義を目指し労働者徴兵制を唱えるトロツキーの「労働の軍隊化構想」を巡って、共産党と労働組合で大論争が起こり、党内3派が争った。3派とは、(1)レーニン、グリゴリー・ジノヴィエフ、スターリンらのグループ、(2)ニコライ・ブハーリンとトロツキー、そして、(3)アレクサンドラ・コロンタイらのグループである。

 この論争でトロツキーは、激しく批判された。1921年3月の第10回党大会でのネップの採択は、トロツキーの敗北であった。

 レーニン、ジノヴィエフ、スターリンに対立し、トロツキーとブハーリンを支持していた中央委員会書記局の全員が、解任された。1922年、スターリンは共産党の書記長に就任。

 1924年のレーニンの死後、トロツキーは中央委員会の多数派と対立し、次第に政策決定の場から外されていく。ブハーリンは、スターリンと協力し、トロツキーを厳しく批判するようになる。スターリンと同様、一国社会主義論の立場を取り、農民との協力体制の下での斬新的な社会主義を主張した。トロツキーは、1925年には閑職に追いやられた。1927年に政府・党の全役職を解任され、1928年に中央アジアのアルマ・アタへ追放、1929年には国外に追放された。

 新しい書記局はヴャチェスラフ・モロトフ(1890年~1986年)が率いることになり、書記局がスターリンの秘密の力の源となってゆく。

農家の半分が集団化され、強制労働に

 1927年、農産物価格が下落したため、農民は「生産スト」を行ない、穀物を市場に出すのを拒否し、もっと高い価格でネップマンに売ったり、穀物を家畜に食わせ、それを自分たちが食べたりした。

 1929年には、農民たちは作物の種まきを放棄した。このため、穀物を輸入しなければならなくなった。これは、体制への宣戦布告だった。マーティン・メイリア『ソヴィエトの悲劇』(草思社)によると、党の見解としては、ネップは失敗したと見なされるようになった。

 1929年12月、青年幹部たちがスターリンの邸に集まった。農村での闘争を強化し、階級としてのクラーク(富農)を絶滅するという使命を再確認した。秘密警察が導入され、組織的な暴力による数百万人規模の殺戮が始まった。これが1930年代の「大粛清」恐怖時代の始まりとなる。

 サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ『スターリン 赤い皇帝と廷臣たち』(白水社)によると、スターリンとモロトフがクラーク撲滅計画を開始してから数カ月間に、2200件の反乱が勃発し、80万人が蜂起した。ラーザリ・カガノヴィッチとアナスタス・ミコヤンは装甲列車に乗り込み、大部隊を率いて農村討伐に出かけた。

 1930年から1931年にかけて、およそ168万人の農民が、ロシアの東部地域または北部地域に強制移住させられた。

 絶望した農民たちは、家畜を処分してしまえば政府を止められると考え、自分の家畜を殺した。2660万頭の牛と1530万頭の馬が屠殺された。これに対して政府は、1930年1月、クラークが家畜を殺した場合はその財産を没収するという政令を制定した。

 1931年の夏には、農産物不足が深刻化して飢餓が発生した。農民たちは犬を食い、馬を食い、腐ったジャガイモを食い、木の皮を食い、目に入るものは何でも食った。

 18万人もの党員労働者が都市から農村に派遣され、銃と集団リンチと強制収容所を武器として、農村を破壊し尽くしていった。

 モンテフィオーリによれば、200万人以上の農民がシベリアやカザフスタンに強制移住させられた。強制収容所で奴隷労働を強いられた者の数は、1930年には17万9000人だったが、1935年には100万人に達した。テロルと強制労働が政治局の仕事の中心となった。

 モンテフィオーリは、つぎのような数字も挙げている。

 1933年までに110万世帯、700万人の農民が土地を失い、その半数が強制労働の対象になった。消滅した世帯は300万世帯に及ぶ。

 1931年に農業集団化が始まった時に全体で約2500万世帯あった農家のうち、1300万世帯が集団農場に囲いこまれた。つまり、半数以上ということになる。

 1937年までに集団化された農家は1850万世帯だが、農家の世帯数は全体で1990万まで減少した。約1500万人に相当する570万世帯が強制移住させられ、その多くが死亡した。

 こうしたソ連の実態は、西側諸国にはほとんど知られていなかった。労働者の天国を紹介する岩波写真文庫『ソヴェト連邦』(1952年)を、私はいまでも持っている。そこには、機械化された農場の写真に「農場の90%以上がトラクターで耕されている」との説明がある。

 それを見た中学生の私は、日本の農村の貧しい姿と比較して、「なんたる違い」とため息をついていた。集団農場というのが実は地獄の世界であるとは、想像もできなかった。

野口悠紀雄
1940年東京生まれ。東京大学工学部卒業後、大蔵省入省。1972年エール大学Ph.D.(経済学博士号)取得。一橋大学教授、東京大学教授などを経て、現在、早稲田大学ファイナンス総合研究所顧問、一橋大学名誉教授。専攻はファイナンス理論。1992年に『バブルの経済学』(日本経済新聞社)で吉野作造賞。ミリオンセラーとなった『「超」整理法』(中公新書)ほか『戦後日本経済史』(新潮社)、『数字は武器になる』(同)、『ブロックチェーン革命』(日本経済新聞社)など著書多数。公式ホームページ『野口悠紀雄Online』【http://www.noguchi.co.jp

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