「芥川賞受賞作家」石井遊佳さん 元温泉仲居で東大大学院出身の「人生修行」

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逆転する「虚と実」

 一方の芥川賞の発表当日は、チェンナイ市で目覚めて出勤。授業の予定は入っていない日で、社員食堂で昼食をとり、読書などをしながら待っていたところ、午後3時15分に受賞の知らせが携帯電話に届いたという。石井さんは振り向いて夫にピースサインを出し、それから「夫と2人で踊りました」と、これも会見で明かし、同様に記者の笑いを誘っている。

「新潮新人賞の時は、日本に帰国するスケジュールとぴったり合ったので、『これは受賞するかもしれないな』と縁のようなものを感じたんですね。ところが芥川賞の場合はノミネートを日本文学振興会から連絡を頂いたのですが、それを報じた記事などはインドにいるので、なかなか視界に入ってこなかったんです。ですから、友人などから『ニュースを見たよ』と連絡をもらっても、実感がないので他人事のような感覚があり、『前世の自分の噂を伝え聞く』というような印象(笑)が拭えなかったですね。しかも、賞を頂いても記者会見に出られませんでした。たくさんの記者の方々と直面し、写真を撮られ、質疑応答を行っていないわけです。未だに自分の身の回りに起きた大きな変化を実感できないでいるというのが正直なところですね」

『百年泥』は《チェンナイで日本語教師を務める作者が、同じ境遇の女性を主人公にして書いた私小説風の作品だが、ふんだんな虚構装置を搭載している。(略)インドらしい法螺話と、空飛ぶ通勤者などのSF的ガジェット、そして百年積もった泥から行方不明者や日本で飲んだ酒のボトルなどがするする出てくる超絶リアリズムの手法が、飄々と織り交ぜられ、度肝を抜かれた》(新潮新人賞選評/鴻巣友季子)と評されたように、虚実がない交ぜとなった文学空間が多くの注目を集めている。

「マジックリアリズムの使い手として知られるガルシア=マルケスの小説が好きで、インドのオフィスにも置いています。何度、読み返したか分からないほどで、もう完全に内面化しているんですね。だから空飛ぶ通勤者が出てくる場面は話題になったそうですが、あそこは日記を書くように、私には極めて当たり前の文章として、何も考えずにすらすらと出てくるんです。『インドで本当に空飛ぶ通勤者が存在するのか?』、ネットで検索した方もいらっしゃったと聞き、とても嬉しかったですね。逆に母親との関係を描いたところではリアルだと受け止めてくださった方が多かったようですけれど、あそこは細かい『虚』のエピソードを丁寧に積み重ねて構築した、明確にフィクションを描いた部分だったんです。私には自然な空飛ぶ通勤者という場面が魔術的に受け止められ、技巧的に描いた母の描写がリアリズムに受け止められるという逆転は、私にとっても非常に興味深いです」

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