年を重ねる姿があこがれを集めた「故・藤村俊二さん」今を大切に生きる(墓碑銘)

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 多くの名優を失った2017年の芸能界――。なかでも余人をもって代えがたい存在が、藤村俊二さんだった。週刊新潮連載コラム「墓碑銘」から、その生涯を振り返ろう。

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 藤村俊二さんは、自身を“芸能界の箸休め”と言っていた。飄々(ひょうひょう)と自然で力が抜けていても存在感がある。

 長男で所属事務所社長の藤村亜実さんは振り返る。

「子供の頃から父の生き方が不思議でした。好きなことを自由に深めながら、欲や執着が薄い。やさしくて、一緒にいると幸せでした。私や姉には、家で勉強するな、学校でするものだ、代わりに好きな何かを見つけてごらんと言ったぐらいです」

 1934年、神奈川県鎌倉生まれ。父親は旭硝子に勤め、戦後は東京・有楽町の映画館スバル座などを経営した。演出家を志し、早稲田大学文学部で演劇を学ぶが、理論中心でもの足りない。東宝芸能学校に転じて、日劇ダンシングチームに入ると60年にヨーロッパ公演に参加。本場の演技を見て舌を巻き、単身、パリで約1年間パントマイムを学ぶ。

 帰国すると振付師になり、「8時だョ!全員集合」のオープニングの振り付けを担当した。バラエティー番組「巨泉×前武ゲバゲバ90分!」に出演すると、とぼけた味わいが秀逸で一躍人気者に。コメディアン、俳優として重用されていく。おヒョイの愛称のいわれは、ヒョイといなくなるからだとか。自分は運が良かった、とよく語った。

 自身と同じ34年生まれの芸能人で作られた昭和九年会の創設メンバーだ。

 俳優、声優の森山周一郎さんは思い起こす。

「男の本厄の翌76年に始まりました。海外に出かけたり、毎月9日の夜9時集合で銀座で飲んだりしていました。おヒョイは準備の労を取ったりしませんが、店から突然いなくなったかと思うと、皆で食べてと餅を持って戻ってきたりしましたね」

 九年会の一員である女優の中村メイコさんも言う。

「シャイな所もある東京っ子。紳士でお洒落。女の人に弱いのだけど、一緒に飲んだり遊ぶ時には、嫌みのない素敵な男の子でした」

 親しい仲の冗談なのか、

「大阪に遊びに行こうよと誘われて一緒に出かけたら、トークショーの会場で驚いた。事前に説明したら断るでしょとはおヒョイらしい。トークの相手をしゃべらせるのが実にうまい一方、周りが言いにくいことを言ってくれる。彼が話すと丸く収まるのです」(森山さん)

 他人と比べて無理をする必要はない、といつも言う。

「ここ一番の仕事と気負うことはありませんでした。努力や頑張りは、人に見せるものではないとの美学があったと思う」(中村さん)

 好きなことに妥協しない。96年、62歳で東京・南青山にワインバーを開いた。自分の家に招いたような気持ちでもてなす凝りようだ。

「九年会が集まる場にもなりました。キンキン(愛川欽也)はお酒が飲めないのに来て、長門裕之とくだらないことで口喧嘩になる。そのやりとりが面白くて、おヒョイもニコニコしながら眺めていた」(森山さん)

 50代に入ってからは満身創痍だ。肺気胸で左肺を摘出。胃癌で胃の3分の2を切除し、腹部大動脈の手術も。

「僕は体の中ががらんどうの人間だよ、と話していたほどです」(中村さん)

 2015年10月に小脳出血で倒れ、『ぶらり途中下車の旅』のナレーションを交代。昨年夏に肺炎となり、次第に弱った。

「父に付き添っていて、なぜ穏やかな表情なのだろうと思っていました。苦痛も全てを受け入れたうえで、今という瞬間を大切に生きようとして、後悔もせず、未来にも不安を抱いていない父の様子に気づきました。心が自由で人にやさしい父の生き方の根本がようやくわかりました」(亜実さん)

 1月25日、心不全のため82歳で旅立った。

 密葬では“塩どき”と題された藤村さん直筆のメモが会葬の礼状に印刷された。

〈このまゝ此処(ここ)に居ては格好悪くなると思った時に其処(そこ)から居なくなる時〉

 記した時期は不明だが、潮時を潔く見極めていた。

週刊新潮 2017年2月16日掲載

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