逸見政孝、シャープ元副社長… 日航機「123便」搭乗を回避した当事者たち

社会週刊新潮 2015年8月25日号別冊「黄金の昭和」探訪掲載

  • 共有
  • ブックマーク

“123”

 父親は怖い人だったと太郎は言う。

「テレビの印象からは想像できないかもしれませんが、家では笑顔をほとんど見せず、頑固一徹。君臨するタイプなんです。自分が決めたことに不用意に口出しすると怒り出す。帰省の件でも、もし母が“お母さんが言っていたから”などと伝えていたら、“お前たちは新幹線で行け、お父さんは1人飛行機で帰る”と言いだしたことでしょう」

 事実、晴恵はこう説得している。

「4人だし、飛行機よりも新幹線のほうが安いから」

 それが功を奏し、一家は新幹線で帰省した。

 日航機墜落のことを知ったのは実家に着いてからだった。フジテレビでは露木茂アナが速報を伝えていた。

「自分が乗るかもしれなかったという驚きもあったでしょうね。よく覚えているのは、お盆休み中、父がずっとやきもきしていたことです。テレビや新聞を頻繁に見たりして、話しかけても上の空だったし。局から東京に戻れという指示はなかったのだと思いますが、やはり現場から伝えたかったんじゃないでしょうか」(太郎)

 逸見は3年後の昭和63年にフリーとなりお茶の間の人気者に。しかし平成5年1月、がん告知を受け、1年足らずでこの世を去る。

 太郎は取材の最後、興味深いことを明かした。

「父がフリーになって初めて買った車が、メタリックシルバーのベンツでした。それにつけたナンバーが“123”だった。“イッツミー”の語呂合わせ。大阪人特有の笑わせてナンボということだったんでしょうが、それにしても123便とは妙な符合ですよね」

 今となっては確かめようがないが、逸見があの日123便を希望したのも同じ理由だったのかもしれない。

(文中敬称略・年齢は本誌掲載当時のものです)

 ***

(3)へつづく

西所正道(にしどころ・まさみち)
昭和36年、奈良県生まれ。著書に『五輪の十字架』『「上海東亜同文書院」風雲録』『そのツラさは、病気です』、近著に『絵描き 中島潔 地獄絵一〇〇〇日』がある。

特集「『日航機』御巣鷹山墜落から30年! 『死神』から間一髪逃れた『キャンセル・リスト』の後半生」より

前へ 1 2 3 4 次へ

[4/4ページ]