逸見政孝、シャープ元副社長… 日航機「123便」搭乗を回避した当事者たち
“123”
父親は怖い人だったと太郎は言う。
「テレビの印象からは想像できないかもしれませんが、家では笑顔をほとんど見せず、頑固一徹。君臨するタイプなんです。自分が決めたことに不用意に口出しすると怒り出す。帰省の件でも、もし母が“お母さんが言っていたから”などと伝えていたら、“お前たちは新幹線で行け、お父さんは1人飛行機で帰る”と言いだしたことでしょう」
事実、晴恵はこう説得している。
「4人だし、飛行機よりも新幹線のほうが安いから」
それが功を奏し、一家は新幹線で帰省した。
日航機墜落のことを知ったのは実家に着いてからだった。フジテレビでは露木茂アナが速報を伝えていた。
「自分が乗るかもしれなかったという驚きもあったでしょうね。よく覚えているのは、お盆休み中、父がずっとやきもきしていたことです。テレビや新聞を頻繁に見たりして、話しかけても上の空だったし。局から東京に戻れという指示はなかったのだと思いますが、やはり現場から伝えたかったんじゃないでしょうか」(太郎)
逸見は3年後の昭和63年にフリーとなりお茶の間の人気者に。しかし平成5年1月、がん告知を受け、1年足らずでこの世を去る。
太郎は取材の最後、興味深いことを明かした。
「父がフリーになって初めて買った車が、メタリックシルバーのベンツでした。それにつけたナンバーが“123”だった。“イッツミー”の語呂合わせ。大阪人特有の笑わせてナンボということだったんでしょうが、それにしても123便とは妙な符合ですよね」
今となっては確かめようがないが、逸見があの日123便を希望したのも同じ理由だったのかもしれない。
(文中敬称略・年齢は本誌掲載当時のものです)
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(3)へつづく
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