逸見政孝、シャープ元副社長… 日航機「123便」搭乗を回避した当事者たち

社会週刊新潮 2015年8月25日号別冊「黄金の昭和」探訪掲載

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危機を2度も回避

 日航機事故のことを知ったのは、ホテルニューオータニのレストランで会食しているときだった。

 ちょうど同じ頃、大阪では悲鳴があがっていた。淨子(じょうこ)夫人は、夫が123便をキャンセルしたことを知らされておらず、いつものように、伊丹空港まで迎えに来ていたのである。そこにもたらされたのが事故の一報。

「家内は、かなり遅くまで待っていたようだ。いったんは私が亡くなったものとあきらめたらしいですがね。ところが東京に残って仕事をしていることを誰かが伝えてくれて、安心して帰宅したようです」

 淨子夫人は空港で待つ間、“あの日”を思い出していたかもしれない。実は佐々木は以前にも、航空機事故を奇跡的に逃れた経験を持っているからだ。

 それは昭和49年、佐々木がシャープの専務時代にさかのぼる。マレーシアに設立された生産会社の竣工式に出席した翌日のことだった。空港に行き、次の目的地であるクアラルンプール行きの飛行機を待っていると、前日竣工式で祝辞を述べてくれたマレーシアの農林大臣と出くわした。

「私の乗る便は途中クアラルンプールに寄る。早く着くから一緒に行かないか」

 と誘われた。心は動いたが、早く到着しても誰も迎えに来ていないと思い、佐々木は断った。その後、農林相を乗せた飛行機は墜落し、彼は命を落とした。

「生かされた命ですから、人の役に立つ製品をつくらなければと思って、これまでやってきました」

 電卓、真空管、半導体、液晶、太陽電池と、シャープ躍進の鍵を握る技術に、佐々木は関わってきた。

 そしていまは老化の原因である細胞の「酸化」を食い止める「還元」技術を勉強中。技術確立のために、「自分を実験台として使ってほしい」とまで熱く語る。

「『知恩報恩』という言葉が好きでね。これまで生かしてくれたご恩に報いたいと思っています」

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