「日航機」御巣鷹山墜落 搭乗を間一髪逃れた人々がその後の人生を語る

社会週刊新潮 2015年8月25日号別冊「黄金の昭和」探訪掲載

「日航機」御巣鷹山墜落 死神から間一髪逃れた「キャンセル・リスト」の後半生(1)

 昭和60年8月12日、「日航機」が御巣鷹山に墜落して520人が犠牲となった。その一方で、搭乗を回避し、「死神」から間一髪逃れた人々がいる。当事者らが初めて明かす、その後の人生とは。

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 その日、釣りライターの大西満(75)が経験したことを「運」の一言で片付けられようか。なにしろ何度振り切っても、死神は先回りするように彼の元を訪れたのだ。

 昭和60年(1985)8月12日の早朝、大西は御巣鷹山からわずか五十数キロの距離にいた。群馬県前橋市の利根川で、約40人の釣りファンを相手に鮎釣りの講習会を開いていたのである。講習が始まったのは7時。まさか12時間後にジャンボ機が墜落するなど予想だにしない穏やかな朝だった。天候は悪くなかった。が、川の濁りが気になっていた。数日前に降った雨の影響だった。

「当時教えていた“泳がせ釣り”という新しい釣り方が、評判になっていたんです。これはオトリ鮎を自由に泳がせ、それに刺激を受けた鮎が喧嘩をしかけてくるところを釣るというもの。ただ、濁っている川では鮎同士が見えにくく難しいのです」

 そんな事情から、当初15時まで行なう予定だった講習を、1時間ほど早く切り上げることになった。

 帰りのチケットは、念のため19時35分発の「羽田発伊丹行き最終便」を取っていたが、

〈これなら1時間以上早い便に乗れるかもしれない〉

 と大西は思った。ところが、講習会を主催した釣具店で帰り支度を始めていると、店の常連客が入ってきた。

「釣り竿が壊れたんだけど、どうにかならないかな」

 見ると、ラジオのアンテナのように伸縮するはずの竿が、伸縮部分が固着して収納できなくなっている。

 普通なら、修理は店主に任せて帰るのだが、メーカー名を見て手が止まった。

「『がまかつ』だったんです。私はがまかつとの間で、製品を試して助言したりするテスター契約を結んでいたので、自社製品みたいなもの。知らんふりできませんでした」

 修理すべく竿を触ったが、びくともしない。「メーカーに任せたら」という言葉が喉元まで出かかったが、となると約1カ月間、釣りができなくなる。それも可哀そうだ、と思いながら試行錯誤していると、ある瞬間、ストンと収まった。

 客は喜んでいたが、時計をみたら30分以上経過している。それでも急げば早い飛行機に乗れると思い、高崎駅から上越新幹線に飛び乗った。途中、妻に電話をし、「少し早い6時ぐらいの便で帰る」と伝えた。

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