関口照生、1年以上をかけて探した「がん治療法」 がんに打ち克った著名人

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 写真家の関口照生(78)は、信頼できる医師と自分が納得できる治療法を1年以上かけて探した人だ。

 還暦過ぎのフォトグラファーの胃に早期のがんが見つかったのは、2001年2月のことである。

 その2年前に目をケガして視力が落ち、思うように作品が撮れなくなり、ストレスが募って胃潰瘍を患っていた。妻で女優の竹下景子が内視鏡検査を受けると言うので、「一緒に」と声を掛けたのだった。

 結果を受けて担当医は手術を勧め、院内の消化器外科で手術の手続きを取るよう促した。しかし関口は「待てよ」と思った。

「当時62歳。その医師は胃の3分の2を切る手術をすると言うけれど、はたして、写真家としての仕事を続けられるのだろうかと思ったわけです。だから手続きはしないで帰りました」

 竹下にそのことを話すと、至って冷静な反応だった。

「お父さんの命ですから、納得いく治療方法を選んでください。私もそれに協力しますから」

 彼女には不安もあったかもしれないが、そんな様子は微塵も見せなかった。夫として「すごく救われた」。

 関口は最初、がんを切除するのではなく、がんと共存する方法を求めた。だが、同級生から友人・知人まで、10人近くの医師に意見を仰いだところ、全員が「腫瘍は取るべし」という回答。

 ならばと専門書など資料を送ってもらい、読みこみ始める。実際に中国・上海の漢方医を訪ねたり、米国の先端治療も調べたが、希望に沿うものではなかった。

 治療法を探している間も、3カ月に1度、がんが進行していないかチェックを受けている。幸いなことに大きくなる気配はなかったが、限界だったのはメンタルの方だった。

「がんがもし進行していったらどうなるのだろうと不安で、たびたび夜中に目が覚めるようになったのです。共存なんて可能なのかと」

 共存作戦から手術受け入れへ転じたものの、可能なら部分切除で通したい。そんな要望に耳を傾けてくれる医師を探し出した。

「若い医師でしたが、最小限の手術に止めること、転移の可能性がなければリンパ節などは切除しない方針を受け入れてくれました。僕も勉強していたから、先生も真剣に考えてくれたのだと思います。あきらめず探して良かったという気持ちで、手術室に入る前は実にすがすがしい気分。麻酔で意識が落ちる直前、真っ青な空に僕が打ったゴルフボールが飛んで、“ナイスショット”という夢のようなものを見ました」

 02年5月に行なわれた手術は成功。術後3カ月でイタリアに撮影旅行へ。1年後にはモロッコに飛んだ。

 その間、繊維質や海藻類など御法度で、口にするのはおかゆやスープ。モロッコでは、パック詰めのご飯を電子レンジで温め、ゴルフボール大のおにぎりにし、かじりながら撮影に臨んだこともあった。

 訪問先の国や土地の食べ物を実際に食べて関係性をつくり、シャッターを押すのが関口流。量や範囲は減ったが、その方法を根っこのところから曲げずにやることができている。1月下旬の海外ロケも無事にこなした。もっとも、

「何でも仕事を受けてきたのですが、それはやめて、テーマを決めて撮るようになりましたね。キューバ、ブータン、ミャンマーなどに行って、子どもの写真を撮る仕事も始めました」

 それを『地球の笑顔』という写真集にまとめ、更にカレンダーを作り、収益を子どものワクチン代として寄付し続けている。

「生まれた国によって命の格差がないような環境をつくれたらと思っています」

 助けられた命だから、今度は助ける側に。善いと悪いを経た人が選んだ道だ。

特別読物「がんに打ち克った5人の著名人 Part5――西所正道(ノンフィクション・ライター)」より

関口照生
1938年生まれ。妻は女優・竹下景子。竹下との共著『ハロープラスワン』、名取裕子写真集『序の舞』など多数

西所正道(にしどころ・まさみち)
1961年奈良県生まれ。著書に『五輪の十字架』『「上海東亜同文書院」風雲録』『そのツラさは、病気です』、近著に『絵描き 中島潔 地獄絵一〇〇〇日』がある。

週刊新潮 2017年2月16日梅見月増大号掲載

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