赤坂芸者は見た! 歴史に幕を下ろす「口悦」の角栄から裕次郎まで

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【悦】とは、神が憑依した神官がうっとりした状態を指す文字である。名が体を表すように、古きよき昭和の香りで訪問者を魅了した赤坂「口悦」。平成が28年を経たいまもなお、“最後の料亭”として君臨しているこの店は3月、歴史に幕を下ろす。昨年春に旭日双光章を受け、赤坂で最もキャリアのある育子(76)が語る「角栄から裕次郎まで」。

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3月10・11日、赤坂ACTシアターで全4回公演の「赤坂をどり」に向け奮闘中の育子

 1940年に熊本で生まれた育子は、地元で長唄の師匠に弟子入りし、芸者見習いの、いわゆる半玉となった。26歳で上京。それが口悦との出合いだ。

「そのころ赤坂には料亭さんが50〜60軒はあり、芸者さんは400人くらいいたと思います。口悦さんは特に格式が高くて、赤坂を代表する料亭さん。歴代のほとんどの総理がいらしていると思います」

 そう言って田中角栄から思い出話を咲かせる。

「先生は優しい方でした。毎朝はやく家を出るときに、門の前に困った風貌の男性が座っていたらしいんです」

 つまり、浮浪者のことだ。

「“お前ひとりならいいけれど、皆には声を掛けるなよ”と、恐らくお金を渡したそうです。それが徐々に人数が増えて行き、5人になっても恵んであげていたという話でしたね。“お前は熊本だから民謡を踊れ”なんて言ってくださって、角栄先生の小唄に合わせて踊ることもありました」

 次に、熊本五高卒の佐藤栄作に対して、その「肌の黒さ」を問うたときのこと。

「“俺だって白いところがあるんだよ。足の裏だろ、そして腹だ。腹は白いんだ”と仰いました。市川団十郎みたいに存在感がある、『よか男』でしたね」

■裕次郎兄さん

 佐藤の兄である岸信介とは、

「思い出がいっぱいある」

 とし、岸と東急のドンこと五島昇に声を掛けられたことに触れて、

「“芸子さんもゴルフくらい知らなきゃ”と誘っていただいたんです。負けると板のチョコレートで払う約束でよく一緒に回っていました。何十枚も渡しましたね。岸先生とゴルフに行った帰りに温泉に寄ったとき、私たち芸者衆も一緒に皆で和気あいあいとお風呂に入ることがあったんです。もうおじいちゃんでしたから、色気を超越した関係。“先生お背中ながしますね”と言うと、“はいはい、お願いね”と返してくださるような感じでした」

 その一方で、「裕次郎兄さん」と呼ぶ石原裕次郎とは半玉時代に邂逅している。

「友達と2人で熱海に家出したときのことです。船着き場に撮影で裕次郎兄さんがいたんです。船のなかを見せてもらったら汽笛が鳴って船が動き始めてしまった。でも裕次郎兄さんは私達に“大丈夫だよ”と」

 裕次郎が投宿する下田の旅館に着いたら、裕次郎はこう言った。

「女将、今からすぐに熱海に帰る電車の切符を2人分用意してくれ」

 およそ2年後、彼女は赤坂で裕次郎と再会する。

「兄さんのいる席に呼ばれて3回目のとき、“家出した女の子を船に乗せてあげたこととか……”と言ってみたら、“あのときのお前か!”となったんです。そこからは、とてもご贔屓にしてくれました」

 父親から「どうせやるなら一流になれ」と言われて赤坂へやってきた育子は、こんな風に締め括る。

「『口悦』という名前が消えることは、ものすごく寂しい。けれど、私を育ててくれた赤坂に人生をかけて恩返しがしたいんです」

 育子の名がすたる、そう顔に書いてあった。

ワイド特集「女という商売」より

週刊新潮 2017年2月16日梅見月増大号掲載

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